ひーちゃんとはーちゃんの話
- 1
- ひーちゃんは中学生の頃に三人殺した
父、母、兄の三人だ
自殺しようと思って、自宅に火をつけた
はた迷惑な野郎だ
そしたらひーちゃんだけが助かってしまった
やっちまった、とひーちゃんは思った
いい人達だったのに燃やしちまった
- 2
- 家が無くなり、家族が全員死んで、
親戚の家で暮らすことになったひーちゃんは、
「いざとなったらもう一回自殺すればいいや」と思い、
そしたらけっこう生きるのが楽になった
火をつけたのがひーちゃんだとは誰も思わなかった
- 3
- 高校は遠い、勉強は難しい、親戚は優しい、
多忙な生活の中で、ひーちゃんはふつうの人間になっていった
「なんで自殺なんかしたんだろう?」と思うようになった
中学の頃の俺は、頭がおかしかったんだ
- 4
- ひとごろしのひーちゃんは、
奨学金を使って大学へ進学し、一人暮らしを始めた
全ては順調に行っているように見えたが、
春の終わりごろから、寝不足に悩まされるようになった
兄が寝させまいとしてくるのだ
確かに悪いのはひーちゃんの方なので、
そういうことをされても仕方ないとひーちゃんは思った
- 5
- 眠りにつくその瞬間、ふっと目が覚めて、
窓なんかに目をやると、兄がこっちを覗いている
死んだときの姿そのままで
あまり気持ちの良いものではない
率直に言ってびっくりする
正直さいしょは悲鳴をあげた
直接的な何かをしてくるわけではないが、
ひーちゃんは着実に弱っていった
- 6
- 授業中に居眠りをするようになって、
ひーちゃんはある法則を発見した
人前で寝る分には、兄は現れない
教室や食堂など、人の集うところだと、
ひーちゃんは安心して寝られるようになった
一人でもひーちゃんの存在を意識している人がいれば、
ひーちゃんはよく寝ることができた
- 7
- じゃあ友達に手伝ってもらえば寝られるじゃん!
しかしひーちゃんには友達がいなかった
罪の意識からくる自分への戒めなのか、
単純に人付き合いが苦手なのか分からないが、
とにかくひーちゃんには友達がいなかった
眠くなると、近所のマックやドトールに行って迷惑がられた
それでも睡眠時間はろくにとれなかった
- 8
- たぶんひーちゃんは寿命が残り少なかった
ひーちゃんもそれを自覚していた
兄は本気でひーちゃんを連れていくつもりだった
ひーちゃんも仕方のないことだとは思った
むしろ、父と母が同じように現れないのが不思議だった
親と言うのは心が広いんだなあ
- 9
- 一生懸命生きてきて、自分の人生に愛着も湧いていたが
一方で、そんなに生き残りたいとも思わなかった
ただし、積極的に死のうという気もなかった
そのうち目が悪くなり、耳も遠くなってきた
起きてるんだか寝てるんだかも曖昧になってきた
- 10
- その日もひーちゃんはイオンのフードコートで寝ていた
携帯がガタガタいう音で目が覚めた
そういえば携帯って振動するんだっけ
ひーちゃんが携帯をぱかっと開けると、
なんと着信が五件もきていた
これはひーちゃん的には一年分に相当する
- 11
- 選択科目の授業でペアを組んでいる相手だった
授業のことで何かあったのだろうか
あわててひーちゃんはリダイヤルした
咳払いをして声を整えた
死期が近づいていると分かっていても
相変わらずどうでもいいことが気になる
単位なんてとっても仕方ないのだが
- 12
- 「寝てた」とひーちゃんは言った
「だろうと思った」と相手の子は言った
しょっちゅう隣の席で寝ているから
ひーちゃんがよく寝る人だということは知っていたようだ
ひーちゃんは聞いた、「で、何の用事?」
「ほら、あれ、水曜一限の課題」
「なんかあったっけ?」
「今日の六時までのやつ」
「それ、大事なやつ?」
「はあ?」お怒りの様子だ
- 13
- 「それって、成績に響く?」ひーちゃんは聞いた
「これやんないと単位もらえない、超大事」
「分かった。大学行けばいい?」
「いや、君んちの傍にいる」
「え? 知ってんの?」
「前授業で言ってたじゃん」
「あー。でも俺、今イオンにいる」
「はあ?」
授業の時も、しょっちゅう「はあ?」と言うので、
ひーちゃんはこの子のことを、頭の中で「はーちゃん」と呼んでいた
- 14
- 「早くこっちきてよ」
「三十分くらいかかる」
「はあ? さっさと来てよ」
ひーちゃんは原付を飛ばして帰った
人と話すのは久しぶりだった
自分ってこういう話し方だっけ? と思った
アパートにつく
ドアの前に、はーちゃんが座っていた
明るい髪色で、目がパンダのはーちゃん
ひーちゃんが一番苦手なタイプだった
- 15
- 「ここ、パソコンある?」とはーちゃんが聞いた
「ある。ネットには繋がってないけど」
「じゃあ、ここで作業するよ。もう時間ないし。いいでしょ?」
「いいですよ」
はーちゃんはひーちゃんの部屋に入って
ひととおり物の無さと生活の質素さに驚いて
四回「はあ?」って言ったあと、課題をはじめた
ひとごろしひーちゃんにとって、ここは生活空間ではないのだ
- 16
- まずいことに、その課題の趣旨は
「相手がこれまでどのように育ってきたか」を
インタビューしてレポートにまとめるというものだった
まずひーちゃんがはーちゃんにインタビューした
三歳からピアノを始めた、小学校から塾に通った
中学は体操部に入った、高校は女子校
はーちゃん、意外とお嬢様だった
- 17
- ひーちゃんは聞いた
「どうしてお嬢様が、そんなんになっちゃったんだ?」
はーちゃんは少し間をおいて答えた
「良い本や良い音楽と巡り合ったから」
はーちゃんの口からそんな言葉を聞くとは思わず
ひーちゃんはなんか久々につぼに入って笑った
実に久しぶりだった
ひーちゃん的には爆笑だったのだが
はーちゃんには薄ら笑いを浮かべてるようにしか見えなかった
はーちゃんはちょっと不機嫌になった
- 18
- ところがその本や音楽について聞いてみると、
ひーちゃんの趣味と結構似ていた
ひーちゃんがそれらのCDや本を持っていると言うと、
はーちゃんは「知ってるよ。そこにあるやつでしょ」と言った
「はあ?」って言ってもらえなくてひーちゃんがっかりした
- 19
- はーちゃんの好きなグールドのCDを流しつつ、
ひーちゃんの人生についての説明が始まった
壮絶過ぎてはーちゃんコメントに困った
もちろん自殺については隠したが
はーちゃんは話題を逸らすことにした
「さっき、電話で『寝てた』って言ったよね?」
「うん。寝てた」
「イオンで寝てたわけ?」
「そういうこと」
はーちゃんますます混乱した
- 20
- はーちゃんは聞いた、
「君、一日何時間寝てるの?」
「量だけなら、六時間くらい」
「昼夜逆転型なの?」
「特殊な不眠症なんだ」
はーちゃんはひーちゃんの顔を見た
明らかに睡眠不足の顔だった
でこぴんすると二秒遅れて「痛い」と言った
反応速度とかも相当にぶっている
これは重傷だ、とはーちゃんは判断した
- 21
- 互いのインタビューが終わり、二人はレポートを書きはじめた
ひーちゃんが一足先に書き終えた
ひーちゃんは眠気で頭がどうかしているので、
はーちゃんに馴れ馴れしく話しかけた
「早く書けよ、はーちゃん」
「うるさいなー、急いでるよ」
「そっちが終わらないと俺も終わらないんだから」
「てか、はーちゃんって誰だよ」
ひーちゃんはあだ名について説明した
以後、はーちゃんはあんまり「はあ?」って言わなくなった
- 22
- 「あとどれくらいかかる?」とひーちゃんは聞いた
「二十分くらい……」
「寝よ。終わったら容赦なく起こして」
はーちゃんはキーボードを叩く手を止めた
「なんでいっつもそんなに眠いの?」
「人がいるとこでしか寝れないんだよ」
「はあ?」
「信じなくてもいい」、ひーちゃんは笑った
- 23
- ひーちゃんは熟睡した
はーちゃんはレポートを仕上げたあと、
喉が渇いたので、外の自販機まで行った
赤い夕焼けで、皆が空を見上げていた
冷たいコーヒーを二つ買って戻ると、
さっきまでいた部屋から、ガラスが割れる音がした
- 24
- 「なに、今の?」戻ってきたはーちゃんは聞いた
「ゴキブリがいたから殺そうとしたんだよ」
ひーちゃんは笑って言った
携帯を投げて窓を割ったらしい
「顔、真っ青だよ?」
「ゴキブリ、苦手なんだ」ひーちゃんは答えた
- 25
- ガラスを集めながら、はーちゃんは理解した
この人、本当に、人がいるとこでしか寝れないんだ
ていうか、寝れない以上の何かがあるんだろうな
マジあたまおかしーんじゃねーの
「……寝れないなら、友達とか、呼べばいいじゃん」
「見りゃ分かるだろ、友達いないんだよ」
そんで家族は一人もいない、か
はーちゃんはひーちゃんの頭を撫でてあげたかった
でも不気味がられるだろうからやめておいた
- 26
- 変なとこ見られちゃったなあ
ひーちゃんはちょっと気まずかった
二人はようやく完成したレポートをメールで送り、
はーちゃんはここにいる理由がなくなった
はーちゃんは立ち上がった
CDをポリーニに換えて戻ってきた
「まだなんかあった?」とひーちゃんが聞くと、
「さっきの話、全部本当だよね?」とはーちゃんは言った
「ゴキブリってのは嘘だ」とひーちゃんは答えた
- 27
- 「ゴキブリってのは嘘だ。俺、ちょっと頭おかしくてさ。
一人で寝ようとすると、眠りについた瞬間にふっと目が覚めて、
全身焼けただれた兄がこっちを見てるっていう幻覚を見るんだ」
「……はあ?」
「マジだよ、はーちゃん。おかしいよな」
ひーちゃんが笑った
ひーちゃんが笑うタイミングが、
なんとなくはーちゃんには分かった気がした
- 28
- はーちゃんはしばらく黙っていた
音楽のおかげで、沈黙は苦痛ではなかった
窓から差し込む西日が部屋を赤く染めた
はーちゃんはひーちゃんを横からどついた
弱っていたひーちゃんはあっさりソファの上に倒れた
「寝なさい」とはーちゃんは言った
ひーちゃんは頷いて眠った
- 29
- ひーちゃんはびっくりするほどよく眠った。
- 30
- ひーちゃんが目を覚ました
うつらうつらしているはーちゃんが横にいた
「おはよう」とひーちゃんは言った
「ん? ……ああ、おはよう」
時計を見て、ひーちゃんは驚いた
「七時間、ずっとここにいたんだ?」
「ん、まあ。本もあったし」
はーちゃんは慌てて本を掲げてそれを証明した
本が逆さまであることに関して
ひーちゃんは特に何も言わなかった
- 31
- ひーちゃんはお礼を言った
「ありがとう。あと、コーヒーありがとう」
「君、人にちゃんとお礼言えるんだね」
はーちゃんは目を逸らして言った
「言えるよ。君こそ、人に優しくできるんだね」
「別に。あー眠い」
はーちゃんはすぐに眠りだした
ひーちゃんは外に出て、久しぶりに心地よく伸びをした
よく寝たー。
- 32
- 二時間後、はーちゃんが目を覚ました
ひーちゃんのソファを使っていたことに気づき、
気まずそうな顔で丁寧になおした
「寝ちゃった」とはーちゃんは言った
「おはよう」
「おはよう……帰るね」
「ん、じゃあ」
はーちゃんは目をこすりながら出ていった
ひーちゃんはその光景を一生忘れないと思う
もうすぐ死ぬから当たり前と言えば当たり前か
あんまり死にたくないなあ、とひーちゃんは思った
でもそういうわけにもいかないのだ
- 33
- 以来、はーちゃんはときどき手伝ってくれるようになった
「ひーちゃん、ひーちゃん」
「んー?」
「最近寝てる?」
「寝てない」
「寝る?」
「寝さして」
二人でいるときは、いつもどっちかが寝てるから
あんまり言葉を交わすこともなかったが、
ひーちゃんもはーちゃんもその時間がとっても好きになった
- 34
- はーちゃんが好きな煙草はキャスターだった
「部屋ん中で煙草吸わないで」
「いいじゃん、どうせもうすぐいなくなるんでしょ、きみ」
「おいしいか、それ?」
「まさか。おいしいわけないじゃん」
「吸うなよ」
「だって私に煙草が似合うんだもん、しょうがないじゃん」
「似合わないよ。あと、髪染めるのも似合わない」
「似合うし」
「化粧濃い」
「うっせー」
はーちゃんの化粧は徐々に薄くなり始めた
- 35
- 大学には保育科のためのピアノ練習室があった
講義の合間に、ひーちゃんが眠くなったとき、
はーちゃんはそこにひーちゃんを連れ込んだ
はーちゃんは定番のゴルドベルク変奏曲を弾いて、
ひーちゃんはピアノカバーにくるまって寝た
音楽室は外の音が全く聞こえなかった
はーちゃんはひーちゃんが起きるのを待つ間、
試験範囲をバカにも分かりやすくまとめることにした
自分がそこまでしてあげる理由が分からなかった
- 36
- はーちゃんがいても兄が現れるようになったことは言わないでおこう。
- 37
- 「なんで自殺しようと思ったの?」
その頃にははーちゃんも、ひーちゃんの自殺未遂で
家族が全員死んじゃったってことを知らされていた
「生きてて楽しくなかったんだ。本当に深い理由はない。
当時の俺は知的生命体じゃなかったんだよ」
「それで死ぬなんて、馬鹿じゃないの?」
「そう、馬鹿だったんだ。けっこう生きるの楽しいのにな」
そう言った後で、ひーちゃんはちょっと嫌な気持ちになった
ひとごろしのひーちゃんは三人も殺したのだ
楽しい楽しい人生を三つも焼却してしまった
殺されても文句は……あるよな、それでも
- 38
- 「罪ってのは永遠に許されないもんだと思う?」
ある日ひーちゃんは唐突にそう言った
「そうだなあ」とはーちゃんは考えた
どうにもうまい慰めの言葉を思いつけなかった
だって、確かにひーちゃんは悪いやつなのだ
今のひーちゃんは絶対に悪さはしない、
いわゆる「更生した」ひーちゃんだけど、
三人殺してしまったことが許されることはない
- 39
- 困り果てたあげく、はーちゃんは、
「私は君のこと好きだよ」と言った
「はぐらかさないで」とひーちゃんは言った
「そっちこそはぐらかさないで」とはーちゃんも言った
ひーちゃんは眠気で理解力が落ちていて、
はーちゃんが何を言いたいのか分からなかった
- 40
- はーちゃんはひーちゃんをソファに押し倒した
「気にすんなよ。寝なさい」
でもひーちゃんは目を開けたままだった
はーちゃんはソファに座り、ひーちゃんの頭を膝に乗せた
ひーちゃんますます眠れなくなった
- 41
- はーちゃんはちょっと考えた
これ、二人で住んだ方が効率いいよなあ
そうしたらいちいちお互いの家まで来なくて済むし、
家賃も安くなるし、私ひーちゃん好きだし
ようやく寝息を立て始めたひーちゃんの
頭をそっと撫でながら、はーちゃんは決めた
ひーちゃんが起きたら、一緒に暮らそうって言おう
- 42
- 「おはよう」ひーちゃんが起きた
「おはよう。よく寝れた?」
「正直、緊張してあんまり寝れなかった」
「あはは。だっせー」
「嬉しいけど、こういうのは困る」
「そっか。次もやろうっと」
「暗いから気を付けて帰りなよ」
「うん。じゃあね」
はーちゃんは手を振って家を出た
ひーちゃんはドアが閉まってもしばらく手を振っていた
- 43
- はーちゃんが帰ると、ひーちゃんはもう一度眠った。
- 44
- 翌日はーちゃんが部屋を訪れると、
ひーちゃんはもういなかった
鍵は開いていたので、はーちゃんは待つことにした
- 45
- はーちゃんはちょっと寂しかった
十六時間くらいそこで寝たり起きたりした
裸足のまま外に出てみた
虫の声がひりひりきこえた
夏の匂いは濃すぎるくらいだった
「ねえ、映画観に行こうよ。ひーちゃんは寝ててもいいからさ」
はーちゃんはひとりごとを言った
「殺人犯が酷い目にあうやつ。一緒に見に行こうよ」
ひーちゃんがしかめづらをするのを想像して、はーちゃんは笑った
「あと、ついでにさ……こうやって行き来するのも面倒だし、一緒に住みませんか?」
なんで敬語なんだよ、と言われるのを想像して、はーちゃんは笑った
そんで泣いた
- 46
- だからそれ以来、はーちゃんはしおらしくなった
煙草をやめて、髪も黒くして、化粧も薄くなった
ひーちゃんが見ても、私だと気づかないだろうな
ひーちゃんの部屋から持ち帰ったCDをかけて、
はーちゃんは自室で今日もうつらうつらする
膝に乗せたひーちゃんの頭の重みを思い出しながら、
手に触れる硬い髪の感触を思い出しながら。
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