あおぞらとくもりぞら

 

1.
僕の仕事は、主に、部屋の掃除でした。

なぜ他人の部屋をわざわざ掃除するのかと言うと、
自殺には、身辺整理がつきものだからです。

きちんと部屋を掃除して、遺書を残して死ねば、
その人の自殺を疑う人は、まずいません。
とにかく、綺麗にすること。それが大事なのです。

手順は、以下の通り定められています。

@標的の体を乗っ取る
A自殺をほのめかす
B身辺整理をする
C遺書を用意する
D自殺する

そういうわけで、僕は自分の仕事を、
二重の意味を込めて<掃除人>と呼んでいました。

 

2.
他人の体を乗っ取り、操作する力が身についたのは、
二十歳の誕生日のことだったと記憶しています。

なんの予兆も、なんの脈絡もありませんでした。
その日、僕はふと、自分に人を操る力があることを理解しました。

それと同時に、<標的>の顔が頭に浮かんできました。
<そいつを自殺に見せかけて処理しろ>と、頭の中の声が言いました。

かくして、僕はその日から<掃除人>になったのです。
以後三ヶ月間にわたって、僕は六人の標的を処理してきました。

 

3.
七人目の標的は、神経質そうな目つきをした女の子でした。

彼女が標的だと知らされたときは、驚きました。
というのも、それまで僕が自殺させてきたのは、
一目見ただけで悪人とわかるような人ばかりで、
こんなに若く無害そうな標的は初めてだったのです。

押せば壊れそうなほど華奢で、
触れると汚れそうなほど色白で、
いつも遠くばかり見つめている。
そんな女の子でした。

しかし、見た目に惑わされてはいけません。
標的とされているからには、相応の理由があるに違いないのです。
おそらく過去に何かしらの罪を犯した人間なのでしょう。
もしかすると、人の二、三人、平気で殺しているかもしれません。

僕は目を閉じて、遠く離れた場所にいる
標的の顔を思い浮かべ、体を乗っ取りました。

七月の、よく晴れた日のことです。
まさかこれが最後の仕事になるとは、
当時の僕は思いもしませんでした。

 

4.
標的は、窓の外を見ていました。

彼女がいるのは、高校の教室。授業中のようです。
生徒たちは皆、忙しそうに板書を取っています。

その中で、標的の女の子だけは、
気怠そうに頬杖をつき、窓の外を眺めていたのでした。

窓の外に、何か面白いものがあったわけではありません。
田舎らしいのどかな風景が広がっているだけです。

 

5.
試しに、標的の手を操って動かしてみることにしました。

操作の精度を試すために、板書を丁寧に写してみます。
手の中のペンが、妙に大きく感じられます。
この女の子の手が、それほど小さいということでしょう。
しかしすぐにその違和感にも慣れ、僕は彼女の体を
自分の体とほぼ変わらない精度で操れるようになります。

ふと顔を上げると、唖然とした表情で
こちらを見つめている教師と目が合いました。


その表情の意味は、もう少し後になってわかります。

 

6.
標的の出方をうかがうために、
僕はノートに「はじめまして」と書き、
そこで一旦体のコントロール権を彼女に返しました。

標的は自分の手を開いたり閉じたりして、
体が自由になったことを確認していました。
操作されているという自覚はあるようです。

標的は、自分の手がひとりでに書いた文字を
興味深そうにじっと見つめ続けていました。
それ以上の反応はありませんでした。

 

7.
授業が終わり、昼休みが始まります。
僕は再び標的の体を乗っ取ります。
ここからが、本番です。

A自殺をほのめかす。
まずは標的の知人や友人に向けて、
標的が絶望している姿を見せる必要があります。

溜め息を増やしたり、最近眠れないと愚痴を漏らしたり、
口数を減らしたり、いつもと違うことを言わせたり。

そうやって言葉の端々に含みを持たせておくことで、
後々、彼女の自殺にリアリティが出てくるのです。
「今にして思えば、あれは自殺の前兆だったんだ」と。

 

8.
僕は教室を見回して、標的の友人を探しました。

しかし、近寄ってきて話しかけてくる者はおろか、
こちらに視線を投げかけてくる者さえいません。
皆、それぞれに固まって、昼食をとりはじめます。

僕は、誰かが声をかけてくるのを我慢強く待ち続けました。
そうしていれば、この子が一人でいることに気づいた誰かが
声をかけてくるはずだろうと思っていました。

 

9.
昼休みの半分まで来ても、
標的は一人ぽつんと取り残されていました。

僕はそこでようやく気づきます。
この教室で、彼女が孤立しているのは、
とても自然な状態なのだということに。

どうやら今回の標的は、いわゆる「ひとりぼっち」のようでした。

 

10.
困ったことになったぞと思いましたが、
よくよく考えてみると、これは好都合でした。

「ひとりぼっち」の女の子というのは、
いつ死んでも、それなりに説得力があるからです。

インタビュアーが訊ねます。
「自殺した女の子は、どんな子でしたか?」
同級生が答えます。
「無口で、なにを考えているかわからない人でした」

そんな光景が目に浮かびます。

しばらく、放っておくことにしました。
何せ、することがありません。
僕は、標的の操作を一時的に解除しました。

彼女は、理想的な「自殺しそうな女の子」を、
黙っていても演じてくれるようでしたから。

 

11.
僕はアパートの一室から標的を操っていました。
相手の顔さえ知っていれば、どこからでも操作は可能なのです。

目覚ましを合わせ、僕は昼寝を始めました。
人の体を乗っ取るのには、とてつもない体力が要ります。

次の仕事は、一番大変な「身辺整理」です。
それまでに、体調を万全にしておく必要がありました。

 

12.
目を覚まして標的の様子をうかがうと、
ちょうど最後の授業が終わるところでした。

標的の子は、誰よりも早く教室を出ていきました。
どうやら部活には入っていないようです。

ウォークマンのイヤホンを耳に差し込むと、
彼女は寄り道もせずにまっすぐ帰宅しました。

標的が帰宅し、自室に入ったところで、
僕は再び彼女の体を乗っ取りました。
B身辺整理をする。
標的の目を通して、部屋を見渡します。

「なんだこれは?」というのが、率直な感想でした。

 

13.
途方に暮れてしまいました。

身辺整理をしようにも、その部屋には、
最低限の家具以外なんにもないのです。

雑誌も、本も、テレビも、パソコンも、
化粧品も、クッションも、ぬいぐるみも、
その部屋には、なんにもないのです。

年頃の女の子に似つかわしくない、
ひどく殺風景な部屋でした。

 

14.
慣れた僕でも部屋の状態によっては五時間以上かかる身辺整理が、
この子の場合はたったの二分で済んでしまいました。

唯一のゴミは、酒瓶でした。
一番下の抽斗に、いくつか入っていました。

僕は酒瓶をゴミ袋に詰めようとしましたが、
よくよく考えるとそのままにしておいた方が
自殺者らしさを演出する上でプラスに働きそうなので、
置いてあった場所に戻しておきました。

 

15.
人間性を感じさせるものも、いくつかありました。
棚に無造作に置かれていたCDがそのひとつです。

アレサ・フランクリン、ジャニス・ジョプリン、
ビリー・ホリデイ、ベッシー・スミス。
いかにも根暗な人間のチョイスという感じでした。

こちらに関しても、そのままにしておいた方が
自殺の演出に役立ちそうなので、放っておきました。

それから、ベランダには観葉植物がありました。
しかしそれも綺麗な花というわけではなく、
奇妙な模様の入った、地味な観葉植物でした。
これもCDと同様の理由で、そのままにしておくことにしました。

身辺整理はそれで終わりでした。
こんなに仕事が順調に進むのは、初めてのことでした。

今すぐ自殺させたところで、多分なんの問題もないでしょう。
下手に手を加えないほうがよさそうです。

 

16.
C遺書を用意する。

仕上げに、標的の手で遺書を書かせます。

世界史の教科書の端を破り取って、
「自分が嫌いなので死にます」としたためました。

なんとなく、この女の子が遺書を書くとしたら、
こんな感じの内容になるのではないかと思ったのです。

 

17.
遺書をポケットに入れて、家を出ようとしたそのときでした。

標的の女の子が、初めて反抗しました。
それも、信じられないほど強い力で。
危うく、コントロール権を奪回されるところでした。

「待って」と標的は口を動かしました。
操作に逆らって無理に動かしたので、
唇の端が切れ、そこから血が流れました。

驚く半面、僕はちょっとほっとしてもいました。
このままだと何もかも上手く行き過ぎて、
逆に気味が悪いと思っていたからです。

さあ、命乞いをしてみせろ、と僕は思います。
いったいどんな言葉が聞けるのでしょうか。

 

18.
標的の女の子は言いました。
「遺書の文面を、少しだけ、弄らせてほしいんです」


19.
僕は自分で言う代わりに標的に喋らせます。
「どういうことだ?」
傍から見れば、彼女のひとりごとでしょう。

標的は答えます。
「『なにもかも嫌いなので死にます』に変えてくれませんか?」

「……なぜ?」

「こいつなんか、死んだ方がよかったんだ、
 って皆に思われたいんです。できることなら」

 

20.
僕はしばらく黙っていましたが、
まあそれくらいはいいかと思い、
文面を彼女の言う通りに修正しました。

「ありがとうございます」と標的は礼を言いました。

結局、一度も命乞いをされないまま終わりそうです。
いったいこの子は何を考えているのでしょう?

そこで僕はふと、ある仮説に行き当たります。

 

21.
ひょっとするとこの女の子は、
僕に目をつけられるよりもずっと前から、
もともと自殺する気でいたのではないでしょうか。

身辺整理も済んで、遺書の内容も決めて、でも、
どうしても最後の一歩を踏み出せずにいたのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、不自然なほど整理された部屋も、
彼女がまったくの無抵抗なのにも納得がいきます。

この仮説が正しければ、僕のやっていることは、
誰かに背中を押してもらいたがっていた自殺志願者を
望みどおりに殺してやる、というだけのことになります。
まるでただのボランティアです。

 

22.
そういうのは、僕の望むところではありませんでした。
死にたがっている人を殺すのは、つまらないことです。
彼女に上手いこと利用されたようで、気に入りません。
僕は他人に利用されるのが何より嫌いなのです。

殺す前に少し、この女の子をいじめてやろう。

なんとかして、彼女の口から「死にたくない」
という言葉を引きずり出して、それから殺してやろう。

そう僕は決めたのでした。

思えば、仕事に私情を挟んだのは、これが初めてのことでした。

僕は標的の体を乗っ取ると、遺書を丸めてゴミ箱に捨て、
別の紙に「友達の家に泊まってくる」とだけ書いて
リビングのテーブルに置くと、財布だけ持って家を出ました。

 

23.
夜の町は、虫の声に覆い尽くされていました。
じっとしていても汗がにじみ出てくるような、蒸し暑い夜でした。

僕は標的を操り、そんな熱帯夜の中を何時間も歩かせ続けました。

坂道や階段が多い港町ということもあって、
彼女の体力は見る見るうちに削られていきます。
全身が汗だくになり、華奢な脚はがくがくと震え始めます。

時間の経過と共に、喉が渇き、お腹が減り、疲労が蓄積していきます。
疲労で視界がだんだんと狭くなり、景色がぼやけてきます。
一歩ごとに、耐えがたい苦痛を感じるようになります。

構わず、僕は彼女を歩かせ続けます。

 

24.
何時間も何時間も坂や階段を上り続け、
ふと標的が顔を上げると、そこは町の天辺にある展望台です。

彼女は重い足取りで螺旋階段を上っていき、屋上に出ます。
落下防止用のフェンスを乗り越え、展望台の縁に立ちます。

フェンスから手を離し、地上を見下ろします。
目眩がするくらいの高さに、彼女の足が竦みます。

あと一歩で、何もかもが終わります。

彼女はその一歩を踏み出します。
足は空を切り、体は前のめりに倒れていきます。

標的は死を覚悟して、ぎゅっと目をつむりました。

 

25.
しかし次の瞬間、標的の体は、
強い力でフェンス側に引き戻されていました。

彼女は何が起きたかわからない様子でした。
おそるおそる目を開けて、自分が助かったことに気づき、
腰を抜かしてその場にぺたんと座り込みました。

それから、ゆっくりと視線を上げて、
自分を落下から救った人物と目を合わせました。

「助かって、ほっとしただろう?」と僕は言いました。
彼女はぽかんと口を開けたまま、僕の顔を見つめていました。

 

26.
しばらくして、標的は口を開きました。
「私を操っていたのは、あなたなんですね?」
「そうだ」と僕は肯きました。

「じゃあ、さっさと殺してください」
彼女は眉ひとつ動かさずに言いました。

その言葉を聞いて、僕はいよいよかちんときます。
こうなったら意地でも彼女に「死にたくない」
と言わせなければ気が済みません。

僕は腰を抜かしている標的を抱え上げました。
そのまま展望台の螺旋階段を慎重に下りていき、
駐めておいた車の後部座席に彼女を放り込みました。

「……私、誘拐されるんですか?」と標的が訊ねます。
「黙ってろ」と言って、僕は車を発進させました。

 

27.
アパートに着くと、僕は標的を自室に連れ込み、
シャワーを浴びてくるように命じました。

標的は何かを悟ったように顔をしかめましたが、
不平らしい不平も言わず、諦めた様子でそれに従いました。
逆らっても無駄だとわかっているのでしょう。

僕は脱衣所にいって標的の脱いだ服を洗濯乾燥機に放り込み、
代わりにバスタオルと着替えを置いておきました。

それから台所に立ち、冷蔵庫の余りものを調理します。
ほどなくして浴室から出てきた標的に、
それを食べるように命じました。

標的は当惑顔で料理と僕を交互に見つめていましたが、
やがて箸を取り、料理を口に運び始めました。

 

28.
食事を終えると、標的は僕に訊きました。
「……どうしてこんなことをするんです?
 さっさと殺しちゃえばいいじゃないですか」

「今、生きてるって感じするだろう?」

「……はい?」彼女は両目をしばたたかせます。

「疲れ切った体に熱いシャワー、空き腹にうまい食事。
 今、お前は否定しようのない充足感を味わっているはずだ」

標的は無言で僕の目を見据えます。

「お前には、なるべく恐怖に怯えながら死んでほしいんだ。
 だから、これから、お前の死に甲斐をひとつ残らず奪ってやろうと思う」

標的は視線を落としたまま何かを考え込んでいましたが、
そのうち舟を漕ぎ始め、テーブルに突っ伏して眠ってしまいました。
僕は彼女を起こさないように、そっとベッドまで運びました。

標的はとても気持ちよさそうに眠っていました。
こうやって生きる喜びをひとつひとつ叩き込んでやろう、と僕は思います。
人生の楽しみを知るたびに、彼女の死の恐怖は増していくはずです。
彼女の顔が恐怖に歪むところを想像して、僕は一人ほくそ笑みました。

 

29.
翌朝、目を覚ました標的は、僕の顔を見るなりこう言いました。
「さあ、昨日のつづきをしましょう」
両手を僕に差し出し、じっと僕の目を見据えます。
「私を殺してくれるんですよね?」

僕は彼女をちょっと睨みつけてから言います。
「ああ、そのうち殺すさ。とてもひどいやりかたで」

「とてもひどいやりかたですか」

「そうだ。せいぜい期待してな」
妙な女の子だ、と僕は思います。
普通の人間なら理解に苦しむであろうこの状況を、
なんの苦もなく受け入れているみたいです。

 

30.
簡単な朝食を作って二人で食べると、
僕は標的を車に乗せて一度自宅まで送り、
支度を済ませて出てきた彼女を高校まで送り届けました。


「お前、学校は好きか?」と僕は訊ねました。
標的は乾いた声で答えました。
「嫌いです。学校という仕組みも、クラスの人たちも、全部」

「いつも一人で、寂しくないのか?」
「いえ。一人が好きなんです」
「なるほど」と僕は肯きました。「参考にしよう」

車から降りると、標的はこちらを振り返って
律儀に頭を下げ、校舎のほうへ歩いて行きました。
これから何が起きるかも知らずに。

 

31.
僕は近くの店の駐車場に車を停めると、
シートを倒して目を閉じました。

標的は、ちょうど教室に入るところでした。
教室という空間が大の苦手なのでしょう、
ドアの前で足を止めて躊躇していました。

長い逡巡の後、彼女は勇気を出してドアに手をかけました。

教室に入ると、近くにいた生徒たちが、
反射的に標的のほうを振り返ります。

そのとき、標的の表情がぱっと明るくなり、
口から「おはよう」と朝の挨拶が出てきます。

もちろん、僕の仕業です。

周りの連中は、誰も挨拶に応えませんでした。
無視されたというわけではなさそうです。
皆、彼女が自分から挨拶してくるなどとは夢にも思わず、
ただの聞き違いだろうと判断したようでした。

標的の顔が、真っ赤に染まってゆきます。
恥ずかしくて仕方がないのでしょう。

殺されるのは平気でも、挨拶を無視されるのは平気じゃないのです。
そういうものです。

 

32.
標的は席に着くなりペンとノートを取り出し、
「やめてください」と書いて僕に訴えかけてきました。
僕は彼女の手を借りて「断る」と返事を書きました。

授業が始まると、標的は机に頬杖をつき、
教師の話そっちのけで窓の外を眺め始めます。
すかさず僕は彼女の体を乗っ取り、
「授業を真面目に受けろ」とノートに指示を書きます。

標的は僕のメッセージをじっと睨んでいましたが、
やがて諦めたようにペンを手に取り、板書を写し始めました。
彼女がノートを取っているのに気づいた壇上の女性教諭は、
さも珍しいものを見るように目を瞠っていました。
よほど普段の授業態度が悪かったのでしょう。

 

33.
昼休みになると、標的は一人で食事を始めようとします。
しかし、こんな絶好の機会を僕が逃すはずもありません。

僕は彼女の体を乗っ取り、近くに集まって昼食をとっている
数人の女子グループに近づいて「あの」と声をかけました。

声をかけられた女の子たちが一斉にこちらを向きます。
僕は標的に感じの良い笑みを浮かべさせ、こう言います。

「私も、混ぜてもらってもいいかな?」

女の子たちは信じられないという顔で目を見合わせます。
「い、いいけど……」と一人がおそるおそる答えます。
僕に操られた標的は、「ありがとう」と目を細めて礼を言います。

標的の顔が、見る見るうちに羞恥に染まっていくのがわかります。

 

34.
そんな調子で、僕は一日中標的を操り続けました。

授業が終わるなり、標的は誰よりも早く教室を出ました。
学校にいる限り、僕のいやがらせが続くと思ったのでしょう。

標的の足はまっすぐ自宅に向かいましたが、そうはさせません。
僕は彼女の体を乗っ取って進路を変更させました。

ただし、今回は夜通し歩かせたりはしません。
二十分ほど歩いたところで、
標的はこぢんまりとした児童公園に到着します。

二台あるブランコの片方に、彼女を座らせます。
当然、もう一方のブランコには僕が座っています。

 

35.
「よう」と僕は手を上げて挨拶しました。「学校はどうだった?」

標的はゆっくりと顔をこちらに向け、僕をにらみつけました。
「なんであんなことするんですか?」

「一人で寂しそうだから、友達を作ってやろうと思ったんだ」

「……私のこといじめて楽しいですか?」

「ああ。お前みたいなタイプが一番いじめていて楽しい」

標的は溜め息をつきました。
「こんな回りくどいことをしてないで、早く殺してください」

僕が無視して煙草に火をつけると、彼女は続けました。
「相手が子供だからって怖じ気づいてるんですか?
 この程度でいちいち躊躇していたら、先が思いやられますよ」

どこか、引っかかる喋り方でした。

 

36.
思えば昨日から、彼女の言動には不可解な点がたくさんありました。

『遺書の文面を、少しだけ、弄らせてほしいんです』
『私を操っていたのはあなたなんですね?』
『さっさと殺しちゃえばいいじゃないですか』

そう——まるで、<掃除人>の仕事内容を理解しているかのような。

数秒間考えてから、僕はこう訊きました。
「お前、どこまで知ってるんだ?」

「……なんの話でしょう?」標的は案の定しらばくれます。

完全にこちらを舐めきった態度でした。
この辺りで力関係をはっきりさせておいたほうがよいだろうと思い、
僕はちょっと乱暴な手段に出ました。

標的の体を奪うと、両手で自分の首を締めさせました。
繊細な造りの十本の指が、細い首に食い込んでいきます。
色の白い顔が、徐々に赤く染まっていきます。

意識を失うぎりぎり手前で操作を解除すると、
彼女はしばらくその場にうずくまって咳き込んでいました。

「答える気になったか?」と僕は訊きます。
標的は顔を上げて、涙目で笑ってみせます。

「残念ですけど、ぜんぜん脅しになってませんよ。
 だってこの方法じゃ、絶対に私のこと殺せないじゃないですか。
 私が意識を失ったら、その時点で操作が解けちゃうんですから」

やはりこの子は何か知っている、と僕は確信します。

 

37.
標的は膝に手をついて立ち上がり、再びブランコに腰かけました。
「答えるまで、延々と同じことを繰り返すぞ」と僕は脅迫します。

「わくわくしますね」と彼女は醒めた顔で言います。

僕は舌打ちします。
「いいから答えろ。お前は一体何を知ってる?」

彼女はちらりと僕を見たあと、視線を正面に戻しました。
「知ってるも何も、今あなたがやってるのは、
 私が昔やってたこと、そのものなんですよ」

「……どういう意味だ?」

標的は軽く地面を蹴って、ブランコを漕ぎました。
きいきいと鎖が軋む音がしました。

「私も以前はそちら側だった、ということです。
 標的を操って、自殺に見せかけて殺していました」

 

38.
「八人、自殺させました。標的は十九歳から七十二歳まで。
 男が六人、女が二人。四人は飛び降りで処理しました。
 首吊りが三人で、残りの一人は薬物です」

「あなたもそうだと思うんですが、ある日突然、
 人の体を乗っ取って自由に操れるようになって、
 同時に、自分が<掃除人>になったことを悟りました。
 頭に<標的>に関する情報が流れ込んできて、
 その人物を自殺に見せかけて処理しろという<指令>が聞こえました」

「私はなんの疑いも持たず、指令を淡々と遂行していきました」

「最初の一人のほかは、上手いことやれたと思います。
 私は、この仕事がわりに気に入っていました。
 一人自殺させるたびに擬似的な死を体験できるので、
 まるで生まれ変わったような気分になれるんです」

 

39.
「あなたは、どうして自分が<掃除人>に
 選ばれたのか、分かりますか?」

僕は首を振って否定の意を示しました。

「これはあくまで私の憶測に過ぎませんが、
 あなたが掃除人に選ばれたのは、
 私が途中で仕事を投げ出したせいです。
 九人目の標的を相手に、私はありがちなミスを犯しました。
 ——同情してしまったんです。
 殺すべき人間を、ただ見逃すばかりか、救おうとしてしまったんです」

 

40.
「それからほどなくして、私の操作能力は失われました。
 使い物にならないと判断されたんでしょう。指令も来なくなりました。
 しかも結局、私が逃した標的は、少し後で自殺しました。
 多分、私の仕事は、後任の掃除人に引き継がれたんでしょうね。
 操作能力も、その人に移譲されたんだと思います」

標的が顔を上げて訊いてきます。
「あなたが掃除人になってから初めて殺した標的って、
 背が高くて、ゆるいパーマをかけていて、
 いつも眠そうな顔をしている女の人でしょう?」

僕の沈黙を、標的は肯定と受け取ったようでした。

 

41.
「あの人のこと、私、殺せなかったんですよ。
 あまりにも、私にそっくりだったから」

“そっくり”の意味について、彼女は深く語ろうとはしませんでした。
ただ一瞬、寂しげに微笑んだだけでした。

「彼女を見逃してから半月ほどして、
 私は人の体を乗っ取る力を失いました。
 ……もちろん、それだけでは終わりませんでした」

「どうやら私は、掃除する側の資格を失っただけでなく、
 掃除される側の人間と見なされてしまったみたいでした。
 ある日、右手が自分の意思とは無関係に動き始めて、
 私は、私の体が何者かによって乗っ取られたことを悟りました」

標的は僕を指差して言います、「それが、あなただったんです」

 

42.
「いわゆる”用済み”ってやつなんでしょうね。
 前任者は、後任者に消されるシステムなんでしょう。
 掃除人をやめた掃除人も、また殺人犯という扱いになるのかも。
 私が自殺させた人の中にも、ひょっとすると、
 元掃除人が混じっていたのかもしれませんね」

「だから」標的はすべてを諦めたような微笑を浮かべて言います。
「さっさと私を片づけたほうがいいと思いますよ。
 もたもたしてると、あなたも掃除人の資格を失ってしまうかも」

 

43.
そういうことだったのか、と僕は納得します。

この女の子が殺されたがっていたのは、
後任の掃除人である僕を生かすためだったのです。

ひょっとすると、彼女は自殺する勇気が出なかったのではなく、
僕に殺されるのを待っていただけなのかもしれません。
掃除人としての仕事を、僕が無事遂行できるように。

——気に食わない、と僕は唇を噛み締めます。
こちらは向こうを殺す気でいるというのに、
向こうはこちらを救う気でいるのです。

 

44.
僕の思考を読んだように、標的がつけ加えます。
「別に、あなたのために殺されようというわけじゃありません。
 そもそも私、生きているのがあんまり好きじゃないんです。
 どちらかと言えば、さっさと死んで楽になりたいって思ってます。
 ……だから、私を殺すのに遠慮なんていりませんよ?」

僕は彼女の話についてしばらく考えを巡らせてから答えました。
「だったら尚更、今お前を殺すわけにはいかないな。
 楽になる手伝いなんて、絶対にしてやるもんか。
 お前には、未練たらたらで死んでもらわなきゃ困る」

彼女は無表情に僕を見つめました。
「なるほど、太らせて殺すというわけですか。
 ……でも、その前に、あなたが殺されると思いますよ」

「どうかな。俺は別に、お前を殺すのをやめるわけじゃない。
 より完璧な死刑執行のために、一時的にそれを保留するだけだ」

「……そうですか。それなら大丈夫かもしれませんね」

 

45.
「お前は、“さっさと死んで楽になりたい”らしいが」
僕は煙草を足下に落として踏み消しながら言います。
「果たして、本当にこの世界に未練がないと言えるのか?」

「……さあ。どうでしょうね」

「たとえばそう——お前の部屋に、妙な草があったじゃないか。
 お前が死ねば、あの草だって道連れだ。すぐに枯れちまうだろう。
 可哀想だと思わないのか? 申し訳ないと思わないのか?」

すると標的の顔に、一瞬、動揺の色が浮かびます。
思いつきの発言でしたが、どうやらあの観葉植物は、
彼女にとって本当に大切なものだったようです。
人を愛せないので、その分の愛情を植物に注いでいるのでしょう。

僕はほくそ笑んで言います。
「どうやら、あの草が本当に大事らしいな?」

標的は唇をぎゅっと結んで僕をじっと睨みつけます。

 

46.
「かーてぃしーです」

「うん?」僕は訊き返します。

標的は顔を上げて、明瞭に発音します。
「アグラオネマ・ニティドゥム・カーティシーです。
 草じゃありません。立派な名前があるんです。覚えてください」

「地味な草のくせに、大層な名前だな」

「カーティシーです」

「わかったよ。カーティシーだな」

「あおぞらです」

僕は空を仰ぎました。青空がどうしたというのでしょう?

 

47.
標的は自身を指さして、もう一度言いました。
「あおぞら。私の名前です。覚えてください」

僕は得心して肯きました。
「ああ、名前か。そういえばそうだったな」

「くもりぞらではないです」

「青空だろう。確かに似合わない名前だ」

すると青空は醒めた笑みを浮かべました。
「……ところが、そうでもないんですよ。
 『blue sky』には、『無価値』という意味もあるんです。
 そういう意味では、私にぴったりの名前ですよ」

 

48.
「そういえば」と青空が訊きます。
「あなたのお名前、うかがってませんでしたね」

「くもりぞらだ」と僕は適当に答えます。

「……まねしないでください」

「本当だよ。すばらしい偶然だな」

「ふうん。似合う名前でよかったですね」

二人のあいだに沈黙が降りました。
ややあって、彼女が口を開きました。
「……聞きたい話はすべて聞き出せたでしょう?
 私、そろそろ帰ってもいいですか」

「ああ」と僕は肯きます。

青空はブランコから降り、出口に向かって
少し歩いてから振り返って言いました。
「さよなら、くもりぞらさん」

「ああ。じゃあな、青空」

 

49.
アパートに戻ったあと、ふと気になって、
青空の言っていた観葉植物について調べてみました。

アグラオネマ・ニティドゥム・カーティシー。
どうやらとても希少な品種のようです。

明るい場所が好きなくせに直射日光は苦手で、
「明るい日陰」で育てる必要があるという面倒な草でした。

 

50.
それからも毎日、僕は青空を操り続けました。
学校では常に微笑みを絶やさず、挨拶を欠かさず、
授業を真面目に受け、自分からクラスメイトに話しかけるようにしました。

もともと青空の器量が良い方だったということもあり、
彼女がそうした「当たり前」をしっかりとこなすだけで、
自然と周囲からの好感度は上昇していきました。

次第にクラスメイトたちは青空への認識をあらため、
彼らの方から頻繁に声をかけてくれるようになりました。
そうなってからは、僕は青空を操作する頻度を徐々に減らし、
親しげに話しかけてくるクラスメイトに対する青空の反応を楽しみました。

 

51.
「青空さん、おはよう」
「青空さん、一緒にごはん食べようよ」
「青空さんって普段どんな音楽聴いてるの?」
「ねえ青空さん、ここの問4だけど……」
「ほら青空ちゃん、ここ座って」
「私、もっと青空ちゃんの話聞きたい」
「いいからいいから、青空ちゃんもおいでよ」
「青空ちゃん」「青空ちゃん」「青空ちゃん」

「じゃあね、青空ちゃん」
帰宅すると、青空は倒れるようにベッドに寝転びます。

「今日は色んな人と話せてよかったじゃないか」
僕は彼女の口を操作してそう言います。

「……全然よくないです」青空は弱々しい声で返します。
「くもりぞらさんはひどい人です」

「そう思ってもらえると嬉しい」と僕は言います。

 

52.
幸運だったのは、クラスメイトに一人、
青空の趣味に理解を示す女の子がいたことでした。

「へえ、青空ちゃんもこういうの聴くんだ」

自分と似たような音楽を聴く人間が
教室の中にいたことがよほど嬉しかったのでしょう。
その子はことあるごとに青空の机までやってきて、
好きな音楽について無邪気に語ってくるようになりました。

青空はあまり積極的には口を開きませんでしたが、
彼女の話を無視しているというわけではなさそうでした。
この手の話題は嫌いではないのでしょう。

次第に青空は、ぎこちなくではありますが、
そのクラスメイトの前では僕が操作するまでもなく
ごく自然に言葉を交わすようになっていきました。

このままいけば、青空が教室に溶け込める日もそう遠くなさそうでした。
しかし惜しくも、ここで学校が夏休みに入ってしまいます。

 

53.
夏休み初日、僕は青空を操作して
以前連れていったのと同じ公園に向かわせました。

僕はベンチに腰かけて彼女を待っていました。
公園を囲む木々のあちこちから蝉の鳴き声が聞こえてきます。

その日は珍しく、公園内で子供が遊んでいました。
彼らは大声ではしゃぎながら、回転遊具に捕まって
同じ場所をぐるぐると回り続けています。
そんな光景を、僕はぼんやりと眺めていました。

夏休みだというのに、青空は制服姿で現れました。
ひょっとすると、自分で身辺整理を行った際、
私服はすべて処分してしまったのかもしれません。

公園についた青空は、僕の顔を見るなり言いました。
「さあ、今日こそ殺してくれますよね?」

それから得意気にこう言い添えました。
「学校は夏休みに入ってしまいましたから、
 もうこれ以上のいやがらせは不可能ですもんね」

「そうでもない。方法はいくらでもあるさ」

「……たとえば?」青空は小首を傾げます。

 

54.
僕は彼女の体を乗っ取り、ポケットや鞄を探りました。
ところが、いくら探しても目当てのものは見つかりません。
しかたなく、僕はいったん操作を解除して訊きました。
「お前、携帯電話はどうした?」

「携帯? 持ってませんよ、そんなもの」

「携帯電話を持っていない?」

「私にそんなもの必要ないことくらい、見ればわかるでしょう。
 まさか、今まで気づかなかったんですか?」

確かに、彼女が携帯電話を使用している姿を、
僕はこれまで一度も見たことがありませんでした。
しかしそれは、校則の関係で携帯電話を学校に
持ち込めないせいだろうくらいに考えていたのです。

 

55.
僕が呆れてものも言えずにいると、青空が訊きました。
「携帯電話があったら、なにをするつもりだったんですか?」

「クラスメイトに連絡して、遊びに誘うつもりだった」

「なるほど……」
世の中には“人を遊びに誘う”という文化があるのか、
とでも言いたげに青空は目を丸くしていました。
「でも、残念でしたね。私、クラスメイトの連絡先なんて知りませんから」

「……参ったな。そういう可能性は想定していなかった」

「浅はかでしたね」

「仕方ない。俺がクラスメイトの代わりをしよう」

「……はい?」青空は両目をしばたたかせました。

「友人だと思って、遠慮なく接していいぞ」

「なにを言ってるんですか?」

「ここは暑いから、どこかに涼みにいくか」

僕は青空の手を引き、ベンチから立ち上がりました。
「あの、くもりぞらさん?」
青空が説明を求めてきましたが、僕は素知らぬふりをしました。

 

56.
——僕は、この標的にこだわりすぎているのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎります。
いくら彼女の態度が気に障ったからといって、
標的一人の殺害にここまで時間をかけるのは賢明ではありません。

この辺りで妥協して、彼女を殺すべきなのかもしれません。
クラスメイトの代わりをして彼女を楽しませるなどという
悠長なことをしている暇があったら、その時間を用いて
一人でも多くの標的を始末するべきなのでしょう。

殺害すべき標的は、まだまだ大勢残っているはずですから。

しかし、気づけば僕は青空を連れて喫茶店に入っています。
まあいいか、と僕は一旦すべてを保留します。
ここまで手間をかけて準備を整えたのですから、
当初の計画通り、彼女が「死にたくない」と口にするまで
徹底的にいやがらせを続けることにしましょう。

 

57.
注文したコーヒーが届くと、青空がすかさず文句を付けてきます。
「私コーヒー苦手なんですよ。にがいから」

「ウイスキーが飲めるのに?」

「コーヒー、毒みたいな味するじゃないですか」

「まるで毒を飲んだことがあるような口ぶりだな」

「ええ、ありますよ。他人の体を使って、ですけどね」

僕が返事をせずに黙っていると、
青空は「冗談です」と真顔で言います。
どこまで本気なのか、よくわからない女の子です。

 

58.
コーヒーを飲み終えた青空は、ふと思い出したように言いました。

「以前にも言いましたが、私、標的を見逃してから
 半月ほどで操作能力を失いました。
 くもりぞらさんもそろそろ気をつけた方がいいですよ」

「俺には関係のない話だな。別に見逃したつもりはないから」

「とか言って、本当はただ怖じ気づいているんでしょう?
 私みたいな子供を殺すだけの勇気がないんでしょう?」

「そんな安い挑発には乗らない」

「……いくじなし」
青空は頬杖をついてつまらなそうに言いました。

 

59.
喫茶店を出るなり、青空はふうと溜め息をつき、
「では、さようなら」と言って家に帰ろうとします。
僕は彼女の首根っこを掴んで引き止めます。

「なんなんですか」青空はうんざりしたように言います。
「そんなに私と一緒にいたいんですか」

「ああ」と僕は肯きます。
「言っただろう、俺はお前の<死に甲斐>をひとつ残らず奪いたいんだ。
 そのために、生きる楽しみをひとつでも多く知ってほしいのさ。
 『北風と太陽』で、太陽がとった作戦と似たようなもんだな」

「……生きるの、楽しいなあ」と青空はわざとらしく言います。
当然、僕はそれを無視します。

僕は青空を連れて歩き、目に入ったミニシアターに入りました。
強い陽光を浴び続けたせいか妙に体が怠く、
映画が始まってから数分とせずに僕は眠りに落ちてしまいます。

 

60.
目を覚ますと、映画は終わりに差しかかっていました。
劇中で何か感動的な出来事があったらしく、
登場人物たちは大袈裟に涙を流して泣いていました。

建物を出たあと、「どんな映画だった?」と僕が訊くと、
青空は「殺人犯が酷い目にあう映画」と簡潔に答えました。

映画を観て、何か思うところがあったようです。
二歩分の距離を保って僕の後ろを歩きながら、青空は言いました。
「……映画でもドラマでもそうですけど、人殺しをした罪人って、
 改心したとしても最終的には罰を受けて死にますよね」

「『人を殺すような奴は死んでしまえ』ってことだろう」
僕は持論を述べます。
「罪ってのは一度犯したらそれっきりなのさ。
 いくら改心しようと、人殺しは死ぬまで許してもらえない。
 改心した上で死ぬことで、初めて『あいつは改心した』と認められるんだ」

 

61.
「その理屈からいくと」と青空は言います。
「私たちも死んだ方がいいってことですね?」

「俺は別に許してもらおうと思わないから、関係ないな」

しかし、青空は無視して続けます。
「なんだかそういうのはわくわくしますね。
 ここに生きているべきでない若者がふたり」

「……何がどうわくわくするんだ?」

「あおぞらとくもりぞらですもんね」
そう言って青空は僕の顔をじっと見つめます。
その意図は、僕には掴みかねました。

 

62.
そんな日々が、しばらく続きました。

だんだんと青空は僕に口答えすることもなくなり、
放っておいても向こうから会いにくるようになりました。

「くもりぞらさんは本当に私といるのが好きですね」
などと言いつつ、僕のおごりでケーキを食べたり
映画を観たりドライブをしたりするのを楽しんでいました。

そしてときどき、僕の袖をくいくいと引き、
取ってつけたように「早く殺してください」と言うのでした。

 

63.
その日、僕たちは夏祭りに来ていました。
石段の上から見下ろす会場は人で溢れかえっており、
僕たちはそれをぼんやりと眺めていました。

「毎日毎日私に付きまとって、くもりぞらさんは
 よほど暇なんですね。彼女とかいないんですか?」

「ああ。お前のことで手一杯だからな」

「私のせいにしないでください」

青空はあんず飴をひと舐めしたあと、
会場に視線を下ろしたまま僕に訊きました。
「ねえ、くもりぞらさん」

「なんだ」

「くもりぞらさんは、何が楽しくて生きてるんですか?」

「……それを俺に訊いてどうする?」

「私が言うのもなんですが、くもりぞらさん、
 生きててあんまり楽しくなさそうに見えるので」

気に障る物言いだったので、僕はこう返しました。
「お前をいじめるのは楽しいよ」

「……そうですか。それはよかった」
青空は表情を変えずに言いました。

 

64.
そのときふと、どこかで見覚えのある女の子が
石段を上がってくるのが目に入りました。
少し間を置いて、僕はそれが青空のクラスメイトだと思い出しました。

クラスメイトは青空を見ると片手を挙げて挨拶しかけましたが、
隣にいる僕の存在に気づいた途端にその手を引っ込めました。
そして何やら含みのある眼差しを一瞬青空に向けたあと、
元来た道を引き返していってしまいました。

青空はクラスメイトの背中を見送った後で言いました。
「……くもりぞらさん、多分、私の恋人だと勘違いされましたよ」

僕は小さく肯きました。「そう見えたとしても不思議はない」

「つまんないですね。もっと嫌がってくださいよ」

「嫌がってほしいのか」

「はい。落ち込めばいいと思います」

少し考えてから、僕はこう提案します。
「じゃあ、次にあのクラスメイトと会ったら、
 彼氏のふりをして挨拶することにしよう」

「……やめてください」

残念ながら、その後クラスメイトと再会することはありませんでした。

 

65.
その日、青空を家に送り届けて立ち去ろうとすると、
彼女は僕の服の裾を掴んで引き止めました。

僕は立ち止まって振り返ります。「どうかしたか?」

彼女はしばらくうつむいて沈黙していましたが、
やがて観念したように言いました。

「認めます」

「……なんの話だ?」と僕は訊ねます。

青空は目を逸らしたまま小さく溜め息をつきました。
「くもりぞらさんの狙い通りだということです。
 私、今、生きることをちょっと楽しんじゃってます」

 

66.
「珍しく素直じゃないか」と僕は言います。

「……でも、それだけなんです」と彼女は続けます。
「いくら楽しくても、私の自殺願望に変化はありません。
 むしろ、日に日に罪悪感が増していくばかりです。
 八人も殺した私が、のうのうと人生を謳歌するなんて……」

そこまで言ってから、青空は顔を上げました。
「だから、くもりぞらさんが何をやっても無駄なんです」

僕は彼女と目を合わせたまましばし黙考しました。

実を言うと、僕も薄々そのことには感付いていました。
どれだけ彼女の人生に楽しみを増やしたところで、
肝心の罪悪感を取り除かないことには
「死にたくない」と言わせるのは不可能ではないか、と。

 

67.
この辺りが潮時かもしれない、と僕は思います。
彼女の口から「死にたくない」と聞けないのは残念ですが、
「生きることが楽しい」の言葉を引き出すことはできました。

おそらく今、青空は敗北感に打ち拉がれていることでしょう。
ひょっとすると、今この瞬間こそが、
彼女を殺すのにもっとも適したタイミングなのかも知れません。

青空は僕の思考の流れを読んだかのように言いました。
「さあ、友達ごっこはそろそろお終いにしましょう」

長い沈黙がありました。
僕の頭の中を、様々な考えが渦巻いていました。

やがて、僕は無言で青空に背を向け、その場から立ち去りました。

まだだ、と僕は内心でつぶやきます。まだそのときではない。
青空を殺すのは、<死に甲斐>をひとつ残らず奪いきり、
彼女が僕に命乞いをするようになってからだ。

 

68.
この頃には、僕もうっすらと自覚していたのかもしれません。
自分がこの<標的>の殺害に、抵抗を覚え始めていることに。

そしておそらく、それをはっきりと自覚した瞬間に、
<掃除人>の資格は失われてしまうようにできているのです。

気づいた頃には、もう手遅れでした。

翌日、いつものように青空と二人で真夏の太陽の下を歩いていると、
突然、僕の右手がぴくりと不随意に動きました。

他人を操縦することに慣れている僕には、
それが何を意味するのか、即座に理解できました。

青空に注意を促そうとしましたが、手遅れでした。
口を開きかけたところで、全身のコントロール権が剥奪されます。

僕は出し抜けに青空の肩を掴んで立ち止まります。

青空が驚いて振り返ります。「どうしたんです?」

 

69.
なるほど、と僕は感心します。
もし僕を操っているのが僕の後任の掃除人だとすれば、
そいつは本来青空を先に自殺させるはずなのです。

しかし、今この場には、死ぬべき人間が二人揃っています。
つまり——

「つまり、まず、くもりぞらさんを使って私を殺すわけですね」
青空は僕の様子を見て、すべてを察したとばかりに言います。

「そっか、私はくもりぞらさんの手で殺されるんだ」
彼女は嬉しそうに言うと、無防備に歩み寄ってきます。

 

70.
そのとき僕たちがいたのは、街の噴水広場でした。
人目につかない物陰に入ると、僕は青空の背後に回り、
彼女の細くてひんやりした首に右腕を巻きつけました。

青空は力を抜き、無抵抗で僕に身を委ねます。
僕の腕は、少しずつ青空の首を圧迫していきます。

体を乗っ取られるのは、初めての経験でした。
意外にも、「操られている」という感じはほとんどなくて、
まるで自分の意思でそうしているかのような錯覚を受けました。

 

71.
青空の首に絡みついた僕の腕に、徐々に力が入ります。
いくら操作に逆らってみても、体は動きそうにありません。
しかし、このまま彼女を殺すわけにはいかないのです。
せっかく積み上げてきた努力が台なしになってしまいます。
彼女の死に甲斐を奪いきるまでにはまだ時間が要ります。

僕は抵抗するのを諦めて、代わりに精神を集中します。
すると、意識の半分が青空の体に乗り移ります。
思った通り、まだ僕自身の操作能力は失われていないようです。
半分だけが後任者に移譲されている状態なのかもしれません。

青空はこのまま僕に殺されたいらしく、
必死に操作に抵抗してきましたが、
なんとかそれをねじふせることに成功します。

彼女の体を乗っ取ると、僕は僕自身のみぞおちに肘を入れました。
さらに踵で足の甲を踏みつけ、腕の力が弱まった隙に
全体重をかけて勢いよく後ろに倒れ込みます。
地面に頭を打ちつけた僕は一瞬意識が飛び、
直後、操作から解放されていました。

 

72.
起き上がろうとすると、全身に激痛が走りました。
それは僕がこれまでに経験したことのない種類の痛みでした。
おそらく、操作に逆らったせいでしょう。
全身の筋肉がひっくりかえってしまったように感じられました。

青空はけほけほと咳き込みながら体を起こします。
「大丈夫ですか?」

「いや。あまり大丈夫じゃない」と僕は答えます。

青空は笑います。「体、めちゃくちゃ痛むでしょう?」

「ああ。操作に逆らうと、こんなことになるのか」

「そうなんですよ。しばらく苦しむといいです」

それから彼女は視線を落とし、小声で訊きました。
「ねえくもりぞらさん、私、汗くさくありませんでした?」

「汗?」僕は訊き返しました。「いや、まったく」

「よかった。……もう、こんなことになるなら、
 香水とかつけてくればよかった」
あと一歩で死ぬところだったというのに、
どうでもよいことを気にする女の子だな、と僕は思います。

 

73.
いつまでも地面に寝転んでいるわけにもいかないので、
僕は地面に両手をついて、ゆっくりと立ち上がりました。
全身が悲鳴を上げ、冷や汗がだらだらと出てきます。

石畳からの照り返しが、暑さに拍車をかけています。
僕はいったん広場の噴水の淵に腰かけて、
痛みが引くまで休憩することにしました。

しかし、やっとのことでそこまで辿り着いて腰を下ろしたとき、
僕は立ち眩みを起こし、次の瞬間には噴水の中に落ちていました。

水面に顔を出して、僕は顔を両手で拭います。
広場にいた人たちの視線がこちらに集まっています。
青空はお腹を抱えて笑っています。

僕は両手をついて水中に座り、空を見上げました。
飛行機雲が、青空にふんわりまっすぐのびていました。

 

74.
近くの木にとまった二羽のカラスがこちらを見下ろしていました。
もうすぐ餌になる対象を見るような面構えでした。

「なにやってるんですか」と青空が笑いながら言います。
「まだ誰かに操られてるんですか?」

「涼しげでいいだろう」と僕は答えます。

「体中痛いんだから、笑わせないでください」

「笑い死ね」

「びしょびしょじゃないですか」

青空はそう言うと、噴水のふちに立ち、
ひょいと飛んで僕の横に着水します。

水飛沫があがり、僕は思わず目をつむります。
広場中の視線が再び僕らに集まります。

 

75.
十秒以上たっても顔を上げてこないので、
僕は青空の体を抱え起こしてやりました。
平気そうにふるまってはいましたが、彼女の体も、
僕と同等かそれ以上のダメージを受けていたようです。

頭の天辺から足の爪先までずぶ濡れになった彼女に、僕は言います。
「『噴水で女子高生溺死』なんて、ニュースを見た人が首を傾げるぞ」

「大丈夫です。だって、くもりぞらさん、
 絶対にそんな死に方許してくれないから」
青空は軽く咳き込んでから言いました。「そうでしょう?」

「……まあ、そうだな」

「信じてますよ」
青空はにこりと笑いました。

 

76.
しばらくのあいだ、僕たちは冷たい水を堪能していました。
「くもりぞらさん。まだ、体、痛みますか?」

「……ああ。特に両手がひどい。まだ痺れてる」

「そうですか」

そう言うと、青空は水中でもぞもぞとこちらに躙り寄り、
よそ見をしたまま無言で僕の手を握りました。
麻痺しているから、気づかれないとでも思ったのでしょうか。

僕はあえて、それを指摘しないでおきました。
今は好きにさせておいて、あとでからかってやろうと思ったのです。

 

77.
僕の手を握ったまま、青空は素知らぬ顔で言いました。
「それにしても、どうして追撃がこないんでしょうね?」

「さあな。見当もつかない」と僕は嘘をつきます。
先ほどから<早くそいつを処理しろ>という指令が
絶え間なく聞こえていることなど微塵も匂わせずに。

内心では、こう考えています。
おそらく、まだ手遅れではないのです。
先ほどの攻撃は、ただの警告にすぎません。
僕に操作能力が残されているのが、何よりの証拠です。

ここで警告に従って大人しく青空を殺せば、
僕は標的から外され、再び掃除人に復帰できるのでしょう。

しかし、僕はどうしてもその気になれませんでした。
だから警告に気づいていないふりをしていました。

 

78.
すっかり体の熱が引くと、僕たちは噴水を出て服を絞り、
水をぽたぽた滴らせながら日向のベンチまで歩いていき、
並んで日光浴をして服を乾かしました。

やがて、五時を知らせる鐘が広場に鳴り響きます。
いつの間にか、服は完全に乾いていました。

僕はおもむろに立ち上がって言いました。
「今日は疲れたし、そろそろ帰るか。じゃあな、青空」

青空は何か言いかけて、しかし、
思い直したようにその言葉を呑み込みました。
そして代わりに、いつも通りの挨拶を口にしました。
「はい。さよなら、くもりぞらさん」

別れ際、青空はちょっとだけ名残惜しそうにしていました。
多分、彼女は理解していたのだと思います。
これが最後の別れになる可能性も、十分にあるということを。

 

79.
僕は、二度と青空とは会わないつもりでいました。
後任者の手で青空が殺されるのは、別に構いません。
ですが、今日のように、青空を殺す道具として使われるのは嫌でした。
僕は他人に利用されるのが何より嫌いなのです。

次に体を乗っ取られたら、多分、そのときが僕の最期でしょう。
今日は向こうがあっさり引き下がったので助かりましたが、
本気で殺す気で来られたら、こちらに為す術はありません。
<掃除人>として六人を葬り去ってきた僕にはわかるのです。

僕はアパートに篭もり、審判が下される日を待ちました。
しかし意外にも、それから一週間は平穏な日々が続きました。

僕の操作能力は、依然として残っていました。

 

80.
この一ヶ月、ほとんどの時間を青空へのいやがらせに費やしていたので、
彼女がいなくなると僕は一気に手持ち無沙汰になってしまいました。

朝目覚めると、ついいつもの癖で青空のことを考えてしまいます。
——今日は、どんな手で青空を苦しめてやろう?

その都度、僕は自分に言い聞かせます。
——馬鹿野郎、もう彼女のことは考えなくていいんだ。

すると頭の中でもう一人の僕が言い返します。
——じゃあ、一体何について考えればいいんだ?

その問いに対する答えを、僕は持ち合わせていませんでした。
ほどなくして、僕は皮肉な事実に気がつきました。
青空の死に甲斐を奪うことは、いつしか僕にとって
最大の生き甲斐になってしまっていたのです。

生き甲斐を失った今、僕の気力は急速に衰えてきていました。
殺すならさっさと殺してくれ、と僕は捨て鉢な気持ちでつぶやきました。

 

81.
青空と別れてから十日が経ちました。

その日、僕の頭をふとこんな疑問がよぎりました。
——<標的>は、どういった基準で選定されていたのだろう?

試みに、僕はこれまで殺害した六人の標的を順番に思い浮かべました。
共通点らしい共通点は、これといって見当たりません。

やはり、単に罪を犯した人間であるということ以外に
<標的>を<標的>たらしめる条件はないのかもしれません。

 

82.
しかし。
僕が六人の標的について考えるのに飽きて、
再び青空に思いを馳せたそのとき——
ばらばらだった点が、ひとつの線になったのでした。

これまで僕は、<標的>と<掃除人>を切り離して考えていました。
この誤った前提が、真実を覆い隠していたのです。

青空を含めた七人の共通点。
いえ、僕を含めた八人の共通点、と言うべきでしょう。

僕がそれに気づいた矢先のことでした。

ふいに、二度目の「それ」がやってきました。

 

83.
「……遅かったじゃないか」と僕は軽口を叩きます。
次の瞬間には、僕の体のコントロール権は失われています。

体が、勝手に動き始めます。
手際よく部屋にあるものを仕分けてゴミ袋に入れていき、
それらを持ってゴミ集積場とアパートを何往復もします。
やがて、部屋はほとんどからっぽになります。

身辺整理が済むと、僕の体はホームセンターに向かい、
そこで太めの縄と液体石鹸を購入します。
後任の掃除人は、僕を首吊りで処理するつもりなのでしょう。

 

84.
僕が向かわされた先は、町外れの寂れた神社でした。
手頃な木を見つけると、僕は買い物袋から縄を取り出し、
途中で解けないようにしっかりとそれを枝に結んでいきます。

それから、首を入れるための輪っかを作ります。
いわゆる「ハングマンズノット」という結び方です。
僕も標的を殺す際にそれを使ったことが何度かありました。

さらに掃除人は、縄と僕の首の両方に石鹸水を塗りたくりました。
これも首吊りの常套手段で、摩擦が軽減されることで
縄が上手い具合に首に食い込むのです。

着実に、最期の瞬間が近づいてきていました。
しかし、このとき僕の頭を占めていたのは恐怖心ではなく、
「これで青空を殺さなくて済む」という安堵感でした。

不思議な話ですが、それ以外には何も思いつかなかったのです。

 

85.
間もなく、首吊り自殺の準備が整いました。
掃除人に操られた僕は神社の物置にいき、
ビール瓶のケースを持って戻ってきます。

ケースを地面に伏せて踏み台代わりにすると、
僕はその上に乗って、縄の輪っかに両手をかけました。

そのときふと、僕は自分の後任であるこの掃除人に、
ちょっとしたいやがらせをすることを思いつきました。

僕は操作に抵抗して、口を開きました。
「なあ、今俺を操っている掃除人のあんた」と僕は呼びかけます。
「五分、いや、二分でいい。話を聞いてくれないか?」

案の定、掃除人は僕の発言など気にもかけず、
そのまま僕に首を吊らせようとします。
しかし僕は全力でそれに抵抗し、話を続けます。

 

86.
「俺も、元掃除人だ。以前はあんたと同じように、
 標的を自殺に見せかけて殺すことを繰り返していた。
 だが七人目の標的を殺せなかったせいで、
 掃除人を失格となり、殺される側に回された」

「前に俺と一緒にいた女の子、あれが七人目の標的だ。
 彼女も以前は掃除人をやっていたんだが、
 九人目の標的を殺せなくて、殺される側に回された。
 そういう仕組みなんだ。殺すのをやめると殺される」

「なんでこんな仕組みになっているのかは
 さっぱりわからないが、ひとつ言えることがある。
 それは、あんたが掃除人を続ける限り、いつか必ず、
 『殺せない相手』と出会うだろうってことだ」

「俺もそうだったし、俺の前任者もそうだったし、
 その前任者も、その前任者の前任者も、皆そうだったに違いないんだ。
 あんたもいつか、どうしても殺すことのできない標的と出会う」

僕にとっての、青空のように。

「そのときが、あんたの最後だ」

そう言って、僕はにやりと笑ってみせました。

 

87.
操作に抵抗するのにも、限界がきていました。
やがて、僕の体のコントロール権は完全に奪い返されました。

僕は縄の輪っかに首を入れ、踏み台を蹴飛ばしました。

縄が首に食い込み、両足が空を切り、体がふらふらと揺れました。
脳への酸素の供給が絶たれ、たちまち意識が霞んでいきます。
ぎしぎしと縄の軋む音だけが、妙に鮮明に聞こえました。

最後に脳裏に浮かんだのは、青空の顔でした。
この数週間のうちに目にした彼女の色んな表情が、
走馬燈のように次々と現れては消えていきました。

薄れ行く意識の中、僕はようやく自覚しました。

——そうか。僕は、彼女に恋をしていたんだな。

直後、僕の意識は途切れました。

 

88.
目を覚ますと、緑が一杯でした。
頭上から声がしましたが、上手く聞き取れませんでした。

徐々に、意識の焦点が合ってきました。
僕は自分が地面に横たわっていることに気づきました。
眼前に広がる緑は、敷地に生い茂る雑草でした。

「おい、大丈夫か?」と頭上で誰かが言っています。
ゆっくりと起き上がると、立ち眩みがしました。

上手くいったみたいだな、と僕は一安心します。

「よかった、生きてたか」
僕を救ってくれた農作業着の男は言います。
片手には、剪定ハサミが握られています。
そのハサミで、僕を吊っていた縄を切ったのです。

 

89.
彼が僕を見つけたのは、もちろん偶然ではありません。
首を吊る直前、お喋りをして時間稼ぎをしているあいだに、
僕はこの男を操って近くまで呼び寄せておいたのです。

上手い具合に、意識を失った直後に助けてもらえるように。
近くの倉庫にあった剪定バサミを握らせて。

後任の掃除人は、僕が死んだと思い込んだことでしょう。
これで、しばらくは時間が稼げるはずです。
もっとも、時間を稼いだところでどうなるという話でもないのですが。

 

 90.
僕を助けてくれた初老の男は、困ったような顔で言います。
「なあ兄ちゃん、そういうのはよそでやってくれねえかな。
 こんな近所で自殺なんかされちゃ迷惑なんだよ」

僕は首に巻きついていた縄を外し、ふうと溜め息をつきました。
それから男に礼も言わず、足早にそこを立ち去りました。

正確に言えば、僕は礼を言わなかったのではなく、言えなかったのです。
操作に逆らったせいで、体のあらゆる部位がずきずきと痛みました。
特に、無理に喋り続けたせいで、発声器官が軒並みやられていました。

白い陽炎の中をふらふらと歩きながら、
僕がぼんやりと考えていたのは、やはり青空のことでした。

彼女はもう、殺されてしまったのでしょうか。

 

91.
アパートに着き、自室の鍵を開け中に入ると、
服も脱がずにベッドに体を投げ出しました。

部屋はひどく蒸し暑いのですが、
冷房をつける気力さえ残っていません。
からからに喉が渇いていましたが、
体を起こして台所に行くのさえ億劫でした。

痛みと疲労が、世界のすべてみたいに思えます。
それ以外については、何も考えられませんでした。

こんなことなら大人しく殺されておけばよかったかな、と後悔しました。
なんだったら、後続の掃除人に殺される前に、自分から死んでしまおうか。

長いあいだ、僕は身じろぎひとつせず、死んだように停止していました。

青空、と僕は無意識に彼女の名前をつぶやきました。

「はい」と返事が聞こえました。

 

92.
僕は痛みも忘れて跳ね起き、辺りを見回しました。

玄関口に、見慣れた女の子の姿がありました。

彼女は後ろ手にドアを閉めると、僕の目を見て微笑みます。
「お久しぶりです、くもりぞらさん。
 私のこと、覚えてますか。あおぞらですよ」

そう言うと、我が物顔で人の部屋を歩き回り、
冷蔵庫から勝手に缶ビールを取り出して飲み始めます。

僕は安心して、再びベッドに横になりました。
全身の力が抜けていくようでした。

青空はビールのロング缶をひとつ空にすると、
ふらふらとした足取りで僕に近寄ってきます。
顔はうっすら赤く、酔っ払っている様子です。

「くもりぞらさん、最近ぜんぜん姿を見せないから、
 私の方から会いにきちゃいました」

 

93.
「……なんか、今日は元気ないですね?」
ベッドの端に腰かけた青空は、僕を見下ろして言います。
「私と会えなくて寂しかったんですか?」

僕は「後で見てろよ」という目で青空を睨みます。

「睨んでも怖くありませんよ。動けないんでしょう?
 あ、もしかしてあれですか? 掃除人に殺されそうになったけど、
 死ぬのが怖くて、命からがら逃げ出してきた感じですか?」

僕の表情を見て、青空は自分の推測が当たっていたことに気づき、
嬉しそうに笑いながら僕の肩を人差し指でつつきます。
「やっぱり。実を言うと、私もそうなんです。
 おかげで昨日は、激痛で丸一日動けませんでした。
 ちょうど今のくもりぞらさんみたいになってましたよ」

いくらつついてもまったく抵抗しない僕を見て、
青空は何か思いついたように目を細めます。
「これは、千載一遇のチャンスですね」

 

94.
青空は僕の体を無理やり引き起こすと、
僕の背後に回り、僕の首に右腕を巻きつけました。

「首を絞められたときの仕返しです」と青空は言います。

しかしその腕には大して力がこもっておらず、
ただ後ろから抱き締められているみたいな気分になります。

以前触れたときの青空の体はひんやりとしていたのですが、
今日の青空の体はやけにぽかぽかしていました。

心地よい沈黙が続きました。

「……私、酔っ払いですから」青空は僕の耳元で囁きます。
「酔っ払いですから、これから変なこと言いますけど、
 それは酔っ払いだからです。だから気にしないでください」

 

95.
「なんで最近、いやがらせしてくれないんですか?」

青空は僕の背中に顔を埋め、ぼそぼそと言います。
両腕はだらんと垂れて、僕の胸の前で交差しています。

「どうして私にちょっかいかけてくれないんですか?
 どうして私の好きにさせておくんですか?
 つきまとってくださいよ。連れ回してくださいよ。
 邪魔してくださいよ。困らせてくださいよ」

青空の人差し指が、僕の胸をとんとん叩きます。

「ちょっとさみしいじゃないですか。
 さみしいのが、私は好きなんですよ。
 だからそれを邪魔してくださいよ。
 そういうのが、くもりぞらさんの役目でしょう?」

 

96.
僕は苦労して身を捩り、青空と向かい合いました。
そして、今僕が一時的に発話能力を失っていて
返事ができないのだということを説明しようとして、
自身の口を指差してから両手の人差し指でバツ印を作りました。

すると、青空は何をどう勘違いしたのか、
「だめって言われると、したくなります」と言って、
僕が指差したところに自分の唇を重ねてきました。

そうやって散々にこちらの気持ちを掻き乱したあと、
すうすうと寝息を立てて眠ってしまいました。
僕は溜め息をついて、肩を竦めました。

それからひそかに、さっき死ななくてよかった、と思いました。

 

97.
青空の寝顔を見ながら、僕は考えます。

いつから、彼女に惹かれていたのでしょうか。
夏休みを共に過ごすうちに、情が移ってしまったのでしょうか。

いや、多分そうじゃない、と僕は思います。

僕は、最初からずっと青空に惹かれていたのです。
七人目の標的として彼女を知った、その瞬間から。

あれこれ理屈を付けて僕は青空の殺害を先送りにしてきましたが、
結局のところ、それはひとえに彼女に恋をしていたからなのです。

彼女は、あまりにも僕にそっくりだったから。

 

98.
青空の寝息を聞いているとこちらも眠くなってきたので、
彼女の頭をくしゃくしゃ撫でたあと、その隣で横になりました。

それから僕は、これまでに殺した六人の標的に思いを馳せました。
もしかすると、その六人の中には、誰かにとって大切な人——
僕にとっての青空のような人がいたのかもしれない。
そう思うと、ひどく虚しい気持ちになりました。

取り返しのつかないことをしてしまったんだな。
今さらのように、自分の罪深さを実感しました。
僕と出会った頃の青空も、きっとこんな気持ちでいたのでしょう。

目を覚ますと、体の痛みは引いていました。
僕が冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んでいると、
青空がむくりと上体を起こします。

「いつまで人のベッドで寝てる?」と僕は言います。

「おはようございます」青空は瞼を擦り、僕に微笑みかけます。

ビールを飲みながら「そろそろ帰れ」と言ってみましたが、
青空は眠たげな目で「いやです」と首を振りました。

 

99.
青空はベッドの上に三角座りすると、
しばらくのあいだ、じっと黙り込んでいました。
眠りに落ちる前の自分がした一連の行為を思い返しているのでしょう。

青空は急にしゅんとして、うつむいて言いました。
「あの……さっきはなんか、べたべたしてすみません」

「おお、ちゃんと覚えてるんだな」

「あ、そっか。忘れてることにしとけばよかった」
青空はしまったという顔で頭を抱えます。
それから顔を上げ、僕のビールを指さして言います。
「くもりぞらさん、私にもお酒ください。
 今度は酔ってて覚えてないことにして、色々するので」

「そろそろ帰れ。時間が時間だ」

「時間が時間で時間ですね」
青空はそう言って一人で笑います。
「いやです。帰りません」

 

100.
まあいいか、と僕は説得を諦めます。
考えてみれば、僕も青空も、既に死が確定した身なのです。
次の瞬間には、体を操られて自殺させられているかもしれないのです。
今さら彼女を家に帰してどうなるというのでしょう。

多分青空は、一連の行為を通して僕にこう言ってくれているのです。
「もう私たちには先がないんですから、最後くらい素直になりませんか?」

僕たちは並んでベッドに座り、壁にもたれて、
明かりを消した部屋の中で静寂に耳を澄ましていました。

「……なあ、青空」と僕は言いました。
「こんなことを訊くのは、俺が酔っ払ってるからなんだが」

「まねしないでください」青空が可笑しそうに言います。「なんでしょう?」

「俺がお前にしてやれる、一番のいやがらせってなんだろう?」

彼女は目を見開き、僕の顔をじっと見つめました。
「くもりぞらさんは、私を幸せにする方法が知りたいんですね?」

「そういう言い方もできるかもしれない」

すると青空は穏やかな笑みを浮かべて言いました。
「それはですね、くもりぞらさんが幸せになることです。
 くもりぞらさんの幸せは、私の幸せです。すなわち、
 私への一番のいやがらせは、くもりぞらさんが幸せになることです」

 

101.
それから青空は僕に訊ねました。
「ねえ、くもりぞらさん。ずっと思ってたんですけど、
 私、くもりぞらさんについて、なんにも知らないんです。
 そう……たとえば、私は音楽が好きです。
 それはくもりぞらさんも知ってるでしょう?」

「ああ。見た。悪くない趣味だと思う」

「……くもりぞらさんに褒められた」
青空は目を見開いて大袈裟に感動します。
「——あ、ええっと、話を戻しますけど、
 くもりぞらさんは何か好きなことありますか?
 私も知りたいんです。くもりぞらさんを幸せにする方法」

 

102.
僕は口を開きかけましたが、答えらしい答えを思いつけませんでした。
この数週間青空のことしか考えていなかったので、
自分の望みや願望というものをすっかり忘れてしまったようです。

いや、そういう問題ではないのかもしれない、と僕は考えを改めます。
思えば、掃除人になる前から、僕は自分の幸せというものに無頓着でした。
楽しみらしい楽しみが何ひとつない人生を歩んできました。

二十年にわたる人生の中で、本気で楽しんだことと言えば、
青空へのいやがらせくらいのものだったかもしれません。

生まれて初めて、僕は自分の幸せについて真剣に考えていました。

 

103.
「仕方のない人ですね」見かねた青空が助け船を出してきます。
「なんでもいいから、好きなものを列挙してみてください」

彼女に言われた通り、僕は頭に浮かんできたものを列挙しました。
時計。観覧車。オルゴール。風車。ひまわり。メリーゴーラウンド。

青空はしばらく考え込んだ後、こう言いました。
「つまりくもりぞらさんは、ゆっくり回るものが好きなんですね」

「ゆっくり回るもの……」僕は彼女の言葉を繰り返します。
確かに、いずれも時間をかけてゆっくりと回転するものです。
「そうだな。俺は多分、ゆっくり回るものが好きなんだろう」

すると青空は自身を指さして言いました。
「私と、どっちが好きですか?」

この子は何を言っているのだろう、と僕は首を捻ります。

青空はもう一度自分を指さして言います。
「ゆっくり回るものと、私」

「ゆっくり回るもの」と僕は答えます。

「……じゃあ、ゆっくり回る私」
青空は立ち上がって、ゆっくり回り始めます。

 

104.
気がつくと、僕は青空の肩をつかんで抱き寄せていました。

青空は動揺した様子でつぶやきます。「やってみるものですね……」

僕が十日ぶりの青空を堪能し終えて身を離すと、
彼女は「ねえねえくもりぞらさん」と言いました。
「夜が明けたら、ふたりでお出かけしましょう」

「お出かけ?」と僕は訊き返しました。「どこに?」

「くもりぞらさんを連れていきたい場所があるんです」

「それって——」

「ひみつです」
青空はいたずらっぽい表情で人差し指を口に当てます。
「着いてからのお楽しみ、ということで」

「わかった」僕は肯きました。

それから僕らは、夜が明けるまで束の間の眠りにつきます。

 

105.
翌朝目を覚ました僕は、操作能力が失われていることに気づきました。
しかし、今となってはどうでもよいことでした。
目の前にいる女の子は、操るまでもなく、
僕の望みを叶えてくれるのですから。

数分遅れて起きてきた青空と簡単な朝食をとると、
彼女の案内に従って車を走らせました。

「ずいぶんこの町の地理に詳しいんだな」

「ええ。標的を自殺させるのに相応しい場所を探して、
 ひとりで色んな場所を巡り歩きましたから」
青空はこともなげにそんなことを言います。

「どうしてわざわざそんなことを?」

「決まってるじゃないですか。より自殺らしく見せるためです」

「……相応しい場所、か。考えたこともなかった。
 俺は皆、適当に近所で自殺させてたよ」

「どっちが正しいんでしょう?」

「どっちが正しいというわけでもないだろう。
 自殺というものを積極的な行為として捉えているか、
 受動的な行為として捉えているかの違いじゃないか?」

「なるほど」青空はこくこくと肯きます。

 

106.
そこが第一の目的地であることは、
青空が「到着です」と告げる前からわかっていました。

車を路肩に停めて外に出て少し行くと、
眼下に、一面のひまわり畑が広がっていました。

畑の奥のほうには数基の風車が立っていて、
風を受けてのんびりと回転しています。

さらに視線を上げていくと、晴れ渡った空の向こうに、
気が遠くなるような大きさの積乱雲が見えました。

「どうですか?」と青空が問います。「ゆっくり回ってるでしょう?」

「ああ」と僕は認めます。
それは実に、僕好みの風景でした。

僕たちは柵にもたれて、その風景を目に焼き付けました。
耳鳴りのような蝉の鳴き声に混じって、列車の走行音が聞こえました。

いつ殺されてもおかしくないという状況でしたが、
あるいはそんな状況だからこそ、
僕はとても穏やかな気分でいられました。

 

107.
「……ねえ、くもりぞらさん」
不意に、青空が沈黙を破りました。
「どうして、私たちじゃなきゃいけなかったんでしょうね?」

彼女が<掃除人>の選定基準のことを言っているのだとすぐにわかったのは、
やはり僕も同じことを同じ瞬間に考えていたからでした。

僕は少し逡巡したあと、こう切り出しました。
「——こんな話を、聞いたことがある」

「数百年前、どこの国だったか忘れたが……
 その国では死刑執行人になりたがるやつがいなかったから、
 死刑囚の中から執行人を選んでいたらしい」

「執行人に選ばれた死刑囚は、その仕事を
 続けている限りは死刑を先送りしてもらえるんだが、
 一度でも執行を拒否するとすぐさま殺されて、
 また次の執行人が死刑囚から選ばれていたそうだ」

「それ、私も聞いたことがあります」と青空は肯きます。
「でも、その話がどうかしたんですか?」

僕は一呼吸分の間を置いてから言いました。
「ひょっとしたら、俺たちがやらされていたのも、
 それと似たようなものだったのかもしれない」

青空は少し考えてから、自信なげに訊きます。
「……私たちはもとから死刑囚だった、ということですか?」

「ああ」と僕は肯きました。
「執行人の義務を放棄したから死刑囚になったんじゃなくて、
 執行人になることで一時的に死刑を免除されていた。
 そう考えた方が、色々としっくりくるんだ」

 

108.
「すると、死刑囚の選定基準が気になるところだが……」
僕はその仮説を静かに口にしました。
「俺は、『誰かに殺されたがっていること』が、
 その条件だったんじゃないかと踏んでいる」

「確かに、私が殺されたがっていたのは事実ですが……」
青空は僕の顔を覗き込みます。
「くもりぞらさんにも、そういう願望があったんですか?」

「ああ。でなきゃ、こんな発想はできない」

「どうして?」青空は首を傾げます。

「お前と同じさ。生きてるのがあんまり好きじゃなかったんだ」

 

109.
「そういうふうに考えた上で、あらためて
 これまで殺してきた人たちを振り返ってみると、
 皆多かれ少なかれ自暴自棄なところがあるというか……
 どこか、青空に似たところがあると気づいたんだ」

青空はちょっと思案してから言いました。
「つまり、この<人殺しリレー>は、死にたがっている人を
 片端から安楽死させるために存在していたということですか?」

「まあ、あくまで俺の勝手な想像だ。根拠はまったくない。
 そもそも、こんな理不尽な呪いじみた超自然的な現象を
 理屈で説明しようとすること自体馬鹿げてるしな」

「……でも、もしそれが本当だとしたら」
青空は少し間を置いてから言います。

「なんか、寂しい話ですね」

とてもとても寂しい話だ、と僕も思います。

 

110.
「殺されたがっている人間を殺してくれる。
 それは確かにありがたいシステムだ——しかし、欠陥もある」

「私やくもりぞらさんのように、殺されかけたところで
 今さら生きる喜びを知ってしまう人もいますからね」

「そういうことだ」と僕は肯きました。
「いつか、どこかで、この連鎖が止まってくれればいいんだが」

「……でも私、死刑囚でよかったなって思いますよ」

「なぜ?」

「おかげで、くもりぞらさんと出会えましたから」
青空はそう言って僕に笑いかけます。
言われてみればそうかもな、と僕も心の中で同意します。

 

111.
青空は指折り数えます。
「時計、オルゴール、風車、ひまわり、
 メリーゴーラウンド、観覧車……でしたよね?」

「そうだ」と僕は言います。「よく覚えてたな」

「ひまわりと風車は達成したので、次にいきましょう」

僕は驚いて訊き返します。「もしかして、全部回る気なのか?」

「そうです。とってもいいアイディアがあるんですよ。
 くもりぞらさんの好きなもので一杯の場所があるんです」

青空は柵から降りて、地面に着地します。
「そろそろ出発しましょう。次は、ちょっと遠いですから」

多分その言葉の後に、彼女はこう続けたかったのでしょう。
——残された時間が、あとどれくらいあるかもわかりませんからね。

 

112.
「国道をひたすらまっすぐ」という彼女の案内に従い、
僕は車を走らせ続けました。

午前中あれほど晴れ渡っていた空は、
徐々に厚い雲に覆われ始めていました。

そのうち、青空は寝息を立てて眠り始めました。
僕は車内の冷房を弱め、ラジオの音量を落とし、
彼女を起こさないよう慎重に運転しました。

信号待ちのあいだ、僕は助手席の青空の寝顔をじっと見つめていました。
——ふと、奇妙な錯覚に陥りました。
こんな日々が、いつまでも続くような気がしたのです。

もちろんそれはただの錯覚にすぎず、
僕たちの生命は今この瞬間にも失われようとしています。
しかし、その錯覚をきっかけとして、空想はどこまでも広がりました。
この先もずっと生き続けることができたら、
どんな幸せが僕たちを待ち受けていたんだろう?

僕は慌ててその空想を振り払います。
ありもしない「もしも」を考えるほど、無駄なことはありません。

 

113.
昏々と眠り続ける青空に、僕は語りかけました。
「……この数日間、ずっと考えてた。
 青空がもっと早く俺の前に現れていたら、って。
 そうしたら、俺たちは誰かに殺されたがることもなく、
 こんな馬鹿げた繰り返しに巻き込まれずに済んでいたかもしれない」

そこで言葉を休め、ゆっくりと息を吐いてから、再び僕は続けました。

「そんなふうに考えるべきじゃないことは、わかってる。
 多分俺たちは、こんな形でしか出会うことができなかったし、
 こんな形で出会ったからこそ、今みたいな関係でいられるんだ。
 ……でも、頭ではわかってても、やっぱりつい考えちまうんだよな。
 こんな時間がいつまでも続けばいいのに、って」

やがて、青空が目を覚まして、道案内を再開しました。
彼女は僕の顔を見て、なにか異変があったことに気づきます。
「くもりぞらさん、なんか元気ないですよ?」

「気のせいさ。天気が悪いから、顔色も悪く見えるんだろう」

しかし、青空は僕の嘘などお見通しのようでした。
助手席から手を伸ばして、「よしよし」と僕の頭を撫でてきます。

 

114.
ひまわり畑を出てからおよそ三時間、
目的地に到着したことを青空が僕に知らせました。

古めかしいデパートでした。
家族で買い物をしたあと、最上階の大食堂で
カレーを食べたりクリームソーダを飲んだりするような、
そんな昭和の雰囲気をそのまま残したデパートです。

「屋上遊園地?」と僕は訊き返します。

「そう、屋上遊園地です」と青空は答えます。

「そんな時代錯誤的なものが、まだ存在してたのか」

「ええ。すばらしいでしょう?」
ここにはくもりぞらさんの好きなものが
いっぱいあるんです、と青空は言います。

 

115.
店内に入ると、青空はしばしの別行動を提案しました。
「食堂でコーヒーでも飲んで待っててくれませんか?」

「いいけど、なぜ?」

「ちょっとだけ、準備が必要なんです」

僕は彼女の指示に従い、一人で最上階に向かいます。

思えば、デパートに来るのは久しぶりでした。
最後に訪れたのは、十年以上前ではないでしょうか。

大食堂で食券を購入し、コーヒーを飲みながら青空を待ちました。

 

116.
ひょっとしたら、僕と別れた直後に
青空は殺されてしまったんじゃないか。

そんな不安が頭をもたげ始めた頃、
青空がひょっこりと姿を現しました。

「さ、いきましょう」と青空は言います。
なんのための準備だったのかは、あえて訊かずにおきます。

僕たちはどちらからともなく手を繋いで歩きます。
行き先は、もちろん屋上遊園地です。

 

117.
屋上に到着した途端、場内に大きな音楽が流れ始めます。

真上にある時計台からの音のようです。
見ていると、時計の文字盤が開いていき、
中にいた楽器隊の人形たちが音楽を奏で始めました。

二人でからくり時計に見入っていると、
肌にひやりとした感触がありました。

僕は手のひらを上に向けて、それから空を振り仰ぎました。

雨でした。

今はまだ弱いですが、徐々に強くなりそうな降り方です。

「雨ですね。じゃあ、さっさと乗っちゃいましょう」
メリーゴーラウンドと観覧車を交互に指さして青空は言います。

 

118.
屋上遊園地は、多少古めかしくはあるものの、
想像していたよりもずっとしっかりした遊園地でした。

観覧車はゴンドラが三十以上ある大型のもので、
メリーゴーラウンドもよくある子供騙しの
チープなものではなく、非常に凝った造形のものでした。

僕としてはただそれらを見ているだけで満足だったのですが、
青空は断りもせずに二人分のチケットを購入してしまいます。

僕たちは馬車に乗り、向かい合って座ります。
合図の笛が鳴り、音楽とともに馬車が動き出します。

青空は座席から身を乗り出して、僕に訊きます。
「『とてもひどいやりかた』で私を殺す、
 くもりぞらさん、確かそう言ってましたね?」

「言ったな、確かに」

「それって、どんなやりかただったんです?」

 

119.
少し考えてから、僕は答えます。
「前にも言ったように、簡単に殺しはしない。
 時間をたっぷりかけて、じわじわ殺すんだ。
 生きる喜びを叩き込んで、死に甲斐をすべて奪い、
 死ぬのがおそろしくなったところで殺す」

「時間をたっぷりって、どれくらいですか?」

「お前の場合、死に甲斐を奪いきるのは大変そうだからな。
 十年、二十年、場合によっては、百年でも」

「あはは。実際には、一ヶ月もかかりませんでしたけどね」

「いいや。俺は完璧主義だから、この程度じゃ満足しないんだ」

 

120.
予想通り、雨は次第に強くなっていきます。
屋上にいた客は、どんどん屋内に退避していきます。
僕らはメリーゴーラウンドを降りると、駆け足で観覧車に乗り込みます。

ゴンドラが半分ほどの高さまできたところで、
青空は、ぽつりとつぶやきました。
「百年かけて、殺されたかったなあ」

「俺もそうするつもりでいた」

「でも、難しそうですね」

「今こうして生きているのが不思議なくらいだからな」

「あーあ。なんとかして、逃げられないものですかね?」

僕は無言で首を振ります。

しかし、青空は腕組みをして考え続けます。

 

121.
「こんなのはどうでしょう?」
ゴンドラが三分の二の高さまで来たところで、
青空は顔を上げて言います。

「くもりぞらさん、標的を自殺させる上で、
 定められた手順を言ってみてください」

僕は頭の中に刻み込まれている文章を読み上げます。

@標的の体を乗っ取る
A自殺をほのめかす
B身辺整理をする
C遺書を用意する
D自殺する

「そう。そして、@を阻止することは実質的に困難です。
 ですが、Aを全力で妨害したらどうなるでしょう?」

 

122.
「どれだけ掃除人が努力しても覆せないくらい幸せになっちゃえば、
 いくら周りに向けて自殺をほのめかしても説得力がなくなって、
 いつまでもBの段階に移れないんじゃないでしょうか?」

彼女はもちろん、それを本気で言っているわけではありません。
訪れることのない幸福な未来を想像する免罪符として、
そのような仮定を持ち出しているのです。

僕は話を合わせます。
「なるほど。確かに掃除人には、標的の死が
 自殺だと見せかけなければならない義務があるからな」

「でしょう? そうと決まれば、
 もっともっと幸せにならないといけませんね」

「問題は」と僕は言います。
「今以上の幸せっていうのが、ちょっと想像できないことだな」

青空は照れくさそうに目を逸らします。
「あのですね、くもりぞらさんは卑屈すぎるんです。
 私はもっと思いつきますよ。これから先の幸せ」

 

123.
ゴンドラが、ついに頂点に達します。
その位置からだと、雨に濡れた街が一望できます。

窓の外に視線をやったまま、青空は続けます。
「まずですね、私はくもりぞらさんと同じ大学へ行くんですよ。
 がんばって勉強して、くもりぞらさんの後輩になるんです」

「今の成績だと、だいぶ頑張らないといけないぞ」

「大丈夫ですよ。くもりぞらさんが手伝ってくれますから。
 そうして後輩になったら、また一緒に喫茶店に行ったり、
 映画を観たり、お酒を飲んだりするんです。
 今度は掃除人と標的じゃなくて、恋人同士として。
 それだけじゃありません。くもりぞらさんが望むなら、
 もっともっと恋人らしいことをしてあげてもいいです。

 それから、毎年、殺してしまった人たちのお墓参りにいきましょう。
 その程度で罪が贖われるわけではありませんが、そうすべきなんです。
 今までの行為を深く反省して、あんまり派手な生き方はせず、
 けれども必要以上に卑屈にもならず、強かに生きていくんです。
 ——そう、明るい日陰で生きていくんですよ」

 

124.
観覧車を降りる頃には、雨は大降りになっていました。
遊園地のスタッフが、剥き出しの遊具にカバーをかけています。

濡れた石畳が、遊具の光を反射して色取り取りにきらめいています。
園内に流れていた音楽が止み、屋上は奇妙な静寂に包まれていました。

僕たちは傘も差さず、そんな光景を眺めながら、
観覧車の中で話した空想の続きを話し続けました。

多分、世の中には、大降りの雨の中でしか
上手く話せないことがあるんだと思います。

見込みのない二人は、手遅れの幸せについて、いつまでも語り続けます。

 

125.
ようやく話が途切れかけたとき、
青空が「……あ、そうだ」とつぶやいて
鞄の中から小さな包みを取り出しました。

梱包を解く前から、僕には中身がわかっていました。

青空はそれを僕に手渡します。

木製の箱に入った、シリンダーオルゴールでした。

「これで、くもりぞらさんの好きなものは、一通り揃いましたね」

鳴らしてみてください、と彼女は言います。

僕はオルゴールのねじを巻き、手のひらの上におきます。
シリンダーが回転し出し、ピンが櫛歯を弾いて演奏を始めます。

僕たちは、じっとそれに耳を澄まします。

 

126.
オルゴールは少しずつテンポを落としていき、やがて完全に停止します。
意識から遠ざかっていた雨の音が、再び戻ってきます。

「青空」と僕は呼びかけます。

「はい?」彼女は目線を上げてにこりと笑いかけてきます。

僕はそっと青空を抱き寄せ、頭を撫でました。

「ありがとう」

「いえ、こちらこそ」

青空も僕の背中に両腕を回して背中を擦ってきます。

「ありがとうございました」

そのとき、ふいにオルゴールが一小節分だけ音を奏でました。
解けきっていなかったゼンマイが、今になって動いたのでしょう。

こんな日がずっと続けばいいのにな、と僕はまた思います。

でも結局、その日が僕らにとって最後の日となりました。

 

127.
さて、唐突に感じられるかもしれませんが、
お話はここでお終いです。

七月のよく晴れた日に出会ったのは、
神経質そうな目つきをした女の子でした。

押せば壊れそうなほど華奢で、
触れると汚れそうなほど色白で、
いつも遠くばかり見つめている、

僕が恋をしたのは、そんな女の子でした。

 

おしまい。

 

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